カテゴリー「想い出あれこれ」の42件の記事

2009.05.12

動物のお医者さん

昔、夢中になって読んだ漫画のひとつに「動物のお医者さん」(白泉社)があります。
昭和62年から平成5年にわたり、「花とゆめ」に連載していた、佐々木倫子さんの名作です☆

私はこの作品が大好きで、高校時代に買った漫画を大学生となり都内に引っ越してきた時も持ってきて、その後何度かの引っ越しでも結婚した現在でも、ど~~しても捨てられなくて全巻持っていますsweat02
その全巻を、このゴールデンウィークに約10年ぶりくらいに読み返したんですよ(笑)

いや~。今読んでも大爆笑!
この漫画の影響で、巷ではシベリアンハスキーが流行ったし、マンガの舞台となった北大農獣医の受験生は爆発的に増えたし、観光客が獣医学部近くまで行ったりと、大騒ぎでしたよね。

作者の佐々木倫子さんは北海道のご出身。(しかも、私のふるさとと同じ道南の内陸地域)
ドラマにもなりましたが、あの面白さは漫画ならではかなぁなんて個人的には思っています。
チョビも、ヒヨちゃんも、ミケも、ハムテルも、菱沼さんも、漆原教授も・・・みんな愛すべきキャラクターです☆

あまりにも社会的に注目されて、チョビが大学の心理学のテキストに載っていたんですよ!!
よく覚えていないんですが、何かの例文で「動物のお医者さん」のことが書かれていてびっくりした記憶があります。

全8巻を一気に読んで、大爆笑して夫に訝しがられましたが(笑)とぉ~~っても楽しかったです☆
また、5年くらいしたら読み返そうかなshine
捨てずに持ち歩いてよかったです(笑)

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2009.04.22

1993年の思い出。

先日、久し振りに安藤治彦さんのCDを聴きました。
懐かしくてYouTubeで検索したらありました。
本当になんでも出てくるからスゴイですsweat01

1993年のある日、何かの懸賞で安藤治彦さんのライブの招待券が当たりました。
それがきっかけで知ったのが安藤治彦さんの歌でした。

1993年は私にはかなり思い出深い年で、ものすごくライブに行っていた年でした。
杉真理さんはまだドリーマーズでツアーをやっていた頃で、この年私は五反田ゆうぽうとへ杉さんのライブを見に行ったと記憶しています。
その時、ゲストに松尾清憲さんと竹内まりやさんが出てきたはず・・・。
安部さんの厚生年金でのライブにも行きました。
この頃は、みなさんホールでコンサートをやっていて一般で取ると2階席になったんですよねぇ・・・。
ライブハウスのような臨場感がない、すごくステージが遠い印象が残っています。

この年、五島良子さんの歌とも出会いました。
安藤治彦さん以外にもEPOさんのライブも、同じように無料チケットをラジオでもらって観に行ったように記憶しています。

よくわからないアーティストでも、とにかく生で聴くのが楽しくてあちこちライブへ行った頃でした。
安藤さんもそんなに期待していなかったのに、ライブへ行ったらスゴクよかったんですよね~。
楽曲も良かったしMCも楽しかったし・・・。

そのライブ会場で購入したのが『虹を見たかい』という当時、発売になったばかりのアルバムでした。

Ando

その『虹をみたかい』を久しぶりに聴きながら夕べ、アイロンがけをしました(笑)
今聞いても、古くなくて良かったです。
このアルバムは本当にハズレのない楽曲ばかり。

このアルバムがとてもよかったので、他のアルバムも購入しましたがこのアルバムが私は一番好きでした。
懐かしくて、Googleで検索したら現在は活動していないということが分かり残念でした。
よく考えれば、あれから16年・・・。
長く歌い続けるのも大変ですよね・・・。

私が当たり前に応援し続けている杉真理さんだって、職場のヒトなんかに言わせると「え!まだ歌っているの!?」って言われたりしますからbearing
デビューして30年以上、第一線で活躍し続けるって本当にスゴイなって思います。

1993年当時、人気のあった日清パワーステーション。
私はあのライブハウスが大好きでした。
ほんとによく行ったライブハウスのひとつです。

あれから16年。
ライブハウスも新しくできたり、閉鎖したりいろいろありましたね・・・。
何事も継続するのは難しいんだなぁ・・・と妙に感心したりして。

1枚のCDから、その1年が蘇ってとても懐かしかったです。
当時はインターネットもなかったので、いろんな情報を得るために音楽雑誌を読み漁ったなぁとか(笑)
今は本当に情報があふれて便利ですね。
16年でずいぶん時代が変わったなぁ・・・なんて思いました。


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2009.04.07

結核。

昨日、吉本興業所属の人気お笑いタレントが結核に感染し入院したという報道がありました。
東京都が電話相談窓口を開設するなど、ばたばたしていました。

ワイドショーでは、街角でインタビュー。
「結核は昔の病気だと思っていた」とか「いまどき結核があると思わなかった」などのコメントが数多く放送されました。
巷ではそんなに結核は稀有な病気なんでしょうか!?

ほんの何年か前にも、某大学で学生の結核集団感染がニュースになったのに「いまどき結核・・・」という声が多いことに私は驚いてしまいましたsweat02

結核菌は保有しているだけでは病気にはなりません。
保菌者はたぶん想像以上にいるのではないかと思います。
昔は不治の病として有名で、日本での死亡原因の第一位の病気だったので怖いイメージがあるのだと思います。
隔離病棟・サナトリウム・・・ですからね。
でも、今のように栄養状態がいい飽食の時代、結核は不治の病ではないですし結核を発病した方とちょっと接触したからといって即感染するような病気でもありません。
不安をあおるようなマスコミの報道はなんだかいやだなぁと思って見ています。

実は、私が高校3年生だった時、高校時代お世話になったある方が結核だと判明。
苫小牧にある病院に入院しました。
その方は若かったですよ。
みんなのお兄さん的存在でした。いくつだったのかな?
たぶん、20代半ばとかそれくらいだと思います。

結核だと診断されたそのヒトが入院するお部屋に、私は友人たちとお見舞いに行きました。
なんていう病院だったのか忘れてしまいましたが、ごく普通の病室で特別隔離されているわけでもなく、普通に面談もできました。
特別病院からお見舞いを禁止されたりもしませんでした。

発症した方の症状にもよるでしょうし、周囲の方たちの免疫力など体調にもよりますが高校生でこれから受験というヒトたちになんの規制もされなかったということは、「結核」だからといってそんなに恐れなくていいんだなぁと当時学びました。

ちなみに、何年か前に私の職場でも結核になった方がいましたが全員が検査を強制されることもありませんでした。
10年くらい前にも、友人が結核だと診断されて「みんなも検査しなくちゃいけないかも~」と言っていましたが、結局そのままになりました。

パニックにならないで冷静な対応をしたいものですね~。


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2009.03.31

会いたいヒト。

3月も今日でおしまい。
いよいよ明日から新年度!!
新しい1年ですね~。
今日で退職のヒト、異動のヒト・・・お疲れ様でした~。

私は今日、ある案件でアメリカ在住アジア人からのメールに仕事でお返事を書いていて、なが~いメールだったにも関わらず、"Thanks,"と締めのあいさつを書いたところでなんと!PCがフリーズ。
メールを保存することなく、再起動とあいなりましたsad
日本語で書いても面倒なメールだったのに・・・。
苦手な英語を駆使して書いたのにまんまと書き直しです。

そんなドタバタな年度末最後の日。
年度末ということで、ちょっとノスタルジックなこと書こうかなぁ・・・なんて(笑)

最近、何年か前に書いた私の学生時代のアルバイト「ジョイタイム深沢店」にコメントを下さったり、「ジョイタイム深沢店」で検索してくる方が増えています。
当時のバイト仲間!?それは定かではありませんが・・・sweat02

ジョイタイム関係で、時々会いたいなぁって思う方がいます。
もちろん当時のバイト仲間や、当時の店長も元気かなぁと思ったりもしますが年賀状のやり取りをしているヒトもいるので、近況がまったくわからないというわけでもないのです。

でも、おひとり常連のお客さんでとても良くしてくださった方がいて、そのおじいちゃんはどうしてるかなぁって時々思います。
たぶん、ジョイタイム深沢店でアルバイトをしたことがあるヒトならだれもが知っているヒト。

いつも朝と夜、カウンターの26卓あたりに座ってコーヒーを飲んで、テーブルの上にある紙ナプキンでいろんな人形(?)などを作ってくれたおじいちゃん。
某会社の役員だったと聞いています。
気さくで、穏やかで優しくて、いつもお店のオーナーのような顔をしてアルバイトのみんなを見守っていました。
お店に、スーパーバイザーが来て、いろいろチェックしているときにはスーパーバイザーに話しかけてくれたりして(笑)

数年前一度、ジョイタイムの隣にあったケーキ屋さんに行ったことがあるのですが、その時にもなんとなくあのおじいちゃんがいないかなぁってなんとなく探してしまいました。
たぶん、ジョイタイム深沢店が開店した当時から閉店するまで、ほとんど毎日来てくださった常連さん。

今もお元気でしょうか・・・?
初めてお会いしたとき18歳だった私・・・ずいぶん時間がたちましたね^^;;;

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2009.02.24

雪遊びの思い出

雪が降りそうなほど寒い横浜ですsnow
北海道生まれといえど、人生の半分近くを首都圏で暮らしている私にとってもはや雪国での生活は遠い昔と化しています・・・。

子供のころは雪が大好きでした。
小学校から高校まで、3学期の体育の授業はスキー授業が中心でした。
土曜日の午前中に授業が終わると、家に帰ってスキーを持って同級生と待ち合わせをしてスキー場へ行くこともよくありました。

雪合戦、雪だるま、かまくら作りはあたりまえ。
かまくらの中に、雪でテーブルを作ってみかんやお菓子を持ち込んで、友人たちと話したり遊んだりしたものです。

あの時代、今のように携帯電話もポータブルゲームもありませんから、友達と遊ぶのは会って話すのが主流でした。
子供はああやって社会性を身につけていたはずなんですけどね^^;;;

今は、外で子供を遊ばせにくい環境にもありますよね。
いろいろな事件に子供が巻き込まれることも多く、目が離せないから遊ばせないとか、ゲームで家の中で遊ぶとかが多くなるのは仕方がないことなのでしょうか。
子供たちの体力は、下降しているというデータがありますが・・・。

時代とともに子供の遊び方も変わるのはわかりますが、子供の時しかできない遊びをするといいのになと、はたから見ていて思います。
最近の雪国の子供はどうなんでしょう?
かまくらの中でニンデンドウDSとかやっているのかもしれませんね(笑)

雪合戦も、雪だるまも、かまくら作りも今はやりたくありません(笑)
だって寒いの嫌ですもんsad
子供だったから心から楽しめたし、思い出を共有できたし、今ではとってもいい思い出ですが、子供の時だからできた遊びだったなぁと思います。


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2008.12.26

クリスマスの夜

昨日はクリスマスということで、おうちでごはんではなく外に食べに行こうということになり、仕事の後一旦帰宅して車ででかけました。
昨日は、暖かかったので車の幌を全開にしてオープンカーで、夜景や星空を楽しむことができて楽しかったです。

写真は、オープンカー越しに携帯で撮影したジャックの塔。

Jack_2

あまりキレイじゃないけど^^;
天井がないから、車内からジャックの先端まで撮影できてちょっと感動(笑)

そうそう、肝心(?)の食事はどこに行こうか迷った挙句、元町方面へ行き「汐汲み坂ガーデン」へ行きました。
久しぶりに行きましたが、ここはお気に入りのレストランのひとつです☆

看板犬の黒いラブラドールがいるのですが、最近見かけないのでちょっと心配。
元気かなぁ・・・?

「汐汲み坂ガーデン」もクリスマス仕様になっていて、店内には大きなツリーが飾られていました。
お店の入り口も、いつもは緑あふれる感じなのですがクリスマスな感じで写真のように、イルミネーションがキレイでしたよ~。

Shiokumi

このお店はケーキの種類が豊富なので、迷っちゃう(笑)
私は、紅茶のチーズケーキを食べました*^^*
紅茶とチーズの味がして、おいしかったです♪


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2008.11.30

雪虫

今日、ちょっとした山道(?)を歩いていたらたくさんの小さな虫が群れになって飛んでいました。
それを払いのけながら、階段を上っていてふと「雪虫」を思い出しました。
懐かしい・・・。

「雪虫」は関東じゃ見かけないですよね^^;
北海道ではとってもメジャーな虫なんですけど(笑)
北海道雑学百科」にも紹介されています。
上記サイトにも書かれていますが、雪虫はおなかのところにフワフワした白いものをつけて飛んでいる小さな虫なんです。
アブラムシの一種なんだそうですが、一般的に「雪虫」と呼ばれていて道民には親しまれている虫じゃないかなぁ~?

雪が降る少し前・・・そう、11月半ばくらいになるとフワフワと大量に飛び回るんです。
で、雪虫をみると「もうすぐ雪が降るんだなぁ~」なんて子供の頃は思ったものです☆
群がって飛んでいる小さな虫をみて、そんな雪虫を思い出しました。

雪虫は、関東では見ませんが東北地方にはいるのかなぁ?
それとも北海道だけ?
初めて雪虫を見た方は驚くかもしれませんね^^;;;

北海道の自然」というサイトに、写真が掲載されていました!
すご~い!!こんなに拡大して雪虫を見たことがありません。

最近は温暖化が進んでいるという話を耳にしますが、今でも北海道には雪虫が飛んでいるのかな?
ちょっと懐かしくて、雪虫が見たくなってしまいました。


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2008.11.10

マラソン大会のコト。

週末、寒い中横浜では「第28回横浜マラソン大会」が開催されました。
交通規制などもあり、いつもならあまり近寄りたくないのですが今回は、うっかり(?)10キロとハーフマラソンのスタートに程近い場所に居合わせてしまい、初めて横浜マラソンを間近で見ました。
私は今まで知りませんでしたが、「横浜マラソン」とは言うもののフルマラソンではなくてハーフマラソンと10キロと車椅子の3部門なんですね。(それぞれ男女で分かれているようですが・・・。)

私はマラソンが苦手です^^;
マラソンで3キロ以上、走ったことがありません。
確か、中学のマラソン大会では男子4キロ、女子3キロが一般的だったと記憶しています。
高校だと、10キロ以上の学校が多かったのですが私の母校にはマラソン大会がなかったので高校でマラソンをすることはありませんでした。
(マラソン大会がないから、その学校を選んだともいえますが^^;;;)

横浜マラソンを一緒に見ていた方に「3キロなら走ってもいいかも・・・」と思わずつぶやいた私ですが、彼女は「3キロでもありえない」と言っていました^^;
そんな彼女は、ここ数年毎年横浜マラソンを観戦しているのですが(苦笑)

高校時代は、学校行事としてのマラソン大会はありませんでしたが遠足で長距離を歩くときに一般生徒は文字通り「遠足」でしたが、野球部やスキー部など一部の運動部は部活内マラソン大会ということで、遠足の距離を走らされていましたsweat01
普通の道ではなく、ちょっとした山道なんですけど・・・。

横浜マラソンを見ても、自分で走る気にはなりませんでしたがマラソンに熱中する方たちの気持ちがほんの少し判ったような気がします。

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2008.09.06

「フォスティーヌ」

Fostine_2

フォスティーヌ (1)

先日、職場の同僚と昔懐かしい「キャンディ・キャンディ」の話題になりました。
その昔一世を風靡した少女まんがです。
講談社の「なかよし」に連載されていましたが、私は子供すぎたので連載まんがとしての「キャンディ・キャンディ」は知りません。
アニメーションですっかりはまって、ポニーの家とか看護バッグとかを持っていました(笑)

私が小学校低学年のときに大好きだったまんがに「フォスティーヌ」というのがあります。
その話をしたら、同僚は知りませんでした^^;;
昔のウィーンやその周辺が舞台になっているマンガで原ちえこさんの作品です。
大好きだった記憶はありますが、イマイチストーリーの記憶がなくて^^;;;;

つい、アマゾンで買ってしまいました(笑)
全3巻。
いや~、懐かしかったです。

子供の頃は一生懸命読んだつもりでしたが今読むと1冊10分。
読みやすく、判りやすいストーリー♪
少女マンガの王道!シンデレラストーリーです☆

このマンガを読んでピアノを習いたいと思って親に言ったものの、すでに5歳からお琴を習っていた私。
更にピアノは許されませんでした(^^;

子供の頃はどんな風にこの話を理解していたのか謎ですが。
きっと、小学生は小学生なりに理解していたんでしょうね^^;;;
とても懐かしかったです。


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2008.08.07

ままごと。

今年の夏もまた暑いですね^^;
日本の夏ってこんなに暑かったでしょうか?
・・・去年も同じコトを言ったような気がしています。

わが家は相変わらず、エアコンが2台故障中です。
納戸と化した小さな部屋にクーラーがあるので、時折そこで涼んだり扇風機で冷気をリビングや寝室へ送り込んでしのいでいます。
でも、先日やっとエアコンを購入しに量販店へ行ってきました。
そしてようやく、今週末に納品になります☆
今から待ち遠しいです(笑)

北海道出身の私は、多くの北海道民同様道内で暮らしているときはエアコンなんてものはありませんでした。
ここ数年は北海道でも、猛暑・酷暑が続きエアコンがけっこう売れていると聞きます。
時代は変わったものです・・・(遠い目)。

私が子供の頃も、突然の猛暑という年がありました。
いくつぐらいだったのかなぁ・・・・?
小学校低学年だったと思います。

延長コードで扇風機を庭まで持っていって、アイスノンを持って友達とおままごとをした記憶があります。
とにかく暑かった!!
どうしてそこまでして、庭でままごとをやったのかはわかりません^^;;
子供の考えることは謎です(笑)

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2008.06.07

氷室冴子さん

今日、たまたま職場で氷室冴子さんの作品の話しをしていたところ、夜氷室冴子さんが亡くなったことを知りました。
まだ51歳。
本当に驚きました。

氷室さんは北海道岩見沢出身です。
初期の作品には、岩見沢市民なら誰もが知っている「市内Aコース」のバスにのり…なんてことが、作品に登場します。

私の中学・高校時代は氷室冴子さん、新井素子さんが大人気で、少女小説と言われた集英社のコバルトシリーズが大人気でした。
氷室さんは「クララ白書」や「アグネス白書」といった札幌の北星女子をモデルにした学園ものや、「なんて素敵にジャパネクス」、「なぎさボーイ」など本当によく読みました。

私は、大瀧詠一さんのナイアガラSoundが好きですが、杉真理さんや山下達郎さん、佐野元春さんなどの影響で大瀧さんSoundにたどり着いたのではなく、きっかけはコバルトシリーズの「水曜日には雨がふる」という大和真矢さんの小説のBGMが大瀧さんの「雨のウェンズディ」だったからなんです。(あとがきにそう書いてありました)
それ程、私に影響力があったシリーズなわけです。

当時、赤川次郎さんも大人気でしたが、私は氷室冴子さんをよく読みました。
ここ何年も氷室さんの作品を手にとってはいませんでしたが、何だかびっくりと同時に淋しい気持ちでいっぱいです。
ご冥福をお祈りします。
あの頃夢中になって読んだ作品の感動、忘れません。


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2008.05.30

ヒツジはミユキ?

私は子供時代、とにかくTVっ子だったこともありとにかくTV関係の記憶がたくさん残っています。
小学校3年のとき、3ヶ月ほど入院・自宅療養をしていたことがありその頃もとにかくよくTVを見たものです^^;

杉真理さんファンになったのもTVCMだし、スターダスト☆レビューの歌も松尾清憲さんの歌も初めて聴いたのはTVです。

そんな私が強烈に印象に残っているけれど、何のコマーシャルかさっぱり判らなかったのが「♪ミユキ~ミユキ~ミユキ、ミユキ、ヒツジはミユキ~~♪」という歌。
TVの映像は、ニュージーランドなのかなぁ・・・?とにかく、羊がい~っぱいいる映像なんです!
羊の販売!?・・のわけがないですし^^;;

オトナになっても摩訶不思議でインパクトの強いこのCM。
オトナになってインターネットという文明の利器を手に入れた私は検索しました。

すると、大きな間違いを発見!
「ヒツジはミユキ」じゃなくて「服地はミユキ」が正しいそうです!
そう・・・。
御幸毛織株式会社(現社名は、御幸ホールディングス)のコマーシャルらしいです・・・。
毛織だから、ヒツジの映像で「服地は御幸」なんですね^^;
YouTubeで昔のCMを発見しました。

「ミユキ野球教室」という番組の1社提供CMだったらしいです。
今聞くと、「服地はミユキ」ってちゃんと聴こえますね(^^;
思いこみで「ヒツジはミユキ」になっちゃったのかもしれません。
ところで・・・私、この番組を見た記憶はありません。
CMだけが印象に残っています^^;

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Img54665このCMご存知の方、いらっしゃるかなぁ?

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2008.05.17

新し物好き

私はかなりの新し物好きだと、思います。
最近は、あまり飛びつかなくなりましたが(夫に制されるというのもあるかも・・・)、とにかく目新しいものが気になるようです^^;;;
それは、きっと亡くなった父に似たのだと思っています。

とにかく新しいものがダイスキだった父は、パソコンもワープロも一般家庭用に発売になると間もなく購入したように思います。
私も子供だったので、イマイチ記憶がはっきりしませんが^^;;;;

初めてわが家にやってきたワープロは、ブラザー製のワープロでした。
キーボードは50音順に配列されていました。当然ひらかな入力。
打ち込んだ文字は1行しか、画面で確認できないもので印刷はインクリボンでした。
ブラザー製のワープロなんて、あっという間に無くなったみたいです。

パソコンが初めてやってきたのは、たしか中学1年くらいのときです。
高価だったので、購入したわけではなく電気屋さんから借りてきて半年くらい(?)なぜかうちにありました。
モニターが分厚くて大きくて今では考えられないもので、使い方もよくわからず父と2人、よくゲームで遊んだものでした。

ビデオデッキも新し物好きな父は、ベータを買い撃沈。
今はもう、ベータで撮ったビデオもどこかへ行ってしまいました(苦笑)
確か、高校野球で甲子園へ行った時の試合など録画してあったはずなんだけど。
レーザーディスクも、短い命でしたねぇ^^;;;;
レーザーディスクを持っている方、今はどうしているんでしょう?
DVDなどで買い替えたのかなぁ?

私が高校時代まで暮らしていた家には、押入れを改造した暗室がありました。
父が作ったんだけど(汗)
私が子供の頃、カメラに凝っていた父は暗室まで作って自分で現像していたのです^^;;;
だから、私が子供のときの写真は山ほどあります。
・・・殆どモノクロですけど(笑)
カラーは現像が難しくて自分ではできなかったそうで、カラー写真は写真屋さんで現像して、モノクロは押入れで現像していたのです。

声をかけずに、押入れを開けて写真がダメになったと泣くほど怒られたこともありました。
父はあんなに写真が好きだったのに、私は現像に興味を持ちませんでした^^;;
なんだか、近寄っては行けない空間だったんですもん。(怒られた記憶が多いから^^;;)
そんな私は、写真の構図もイマイチで建物写真も撮るには撮るけどどうもうまくいきません。
今は、デジカメだからいいんだけど^^;;;;

今、父が生きていてもうちょっと若かったら(笑)デジカメの一眼レフとか欲しがったかもしれません。
現像の醍醐味より、新し物好きはきっとデジカメに飛びつくような気がします。


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Img54665初めてPCを見た時には、インターネットなんて想像もしませんでしたぁ^^;

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2008.05.02

いつか告白しよう。

私は今、手話関係のとある組織に参加しています。
昔は遠い存在だったみなさんと、席を並べお話させていただいていることは、ちょっと不思議な感じがします。

昔、昔・・・。
私がようやく手話で自己紹介ができるかな・・・?って程度だったころ。
サークル会員として、ある大会にお手伝いとして参加したことがあります。
周りはろう者と手話だらけ。
準備期間も当日も、聴こえて手話が殆どできない私が完全なるマイノリティ。
外国にいるのと同じような感じです。

そんな中、書籍等グッズ販売を担当していた聴者の手話がとても上手に思えて、
スゴイなぁと思っていました。
聞くと、聴覚障害者と関係がある団体の職員だということでした。

当時、本当に厚顔無恥な私は不躾にも、「そういう職場には、手話ができないと入れないのですか?」とか、「どうして手話を使っう仕事をしようと思ったのですか?」など、思い出すと顔から火がでるような思いになるような質問をしたものでした^^;;;

たぶん、手話やろう者に理解がない人たちの扱いにも慣れていたのでしょうね~。
その人は親切に色々と教えてくれました。

あれから、ずいぶんと月日が経ち、あの時私がお手伝いした大会もその後も何度も回を重ねています。
そして、私の不躾な質問に嫌な顔をしないで答えてくださった方は今も、聴障者とかかわる団体に勤務していて、私が参加している組織とも密接なかかわりがあり、何度もお話をしたり会議などに同席したりしています。

きっと、あの日の厚顔無恥な手話初心者のことを覚えてはいないと思います。
言った所で、思い出さないだろうなぁという程度の些細なできごとでした。
でも、いつか告白しようと思っています(笑)
「その節は大変失礼しました」と、ご挨拶してみたいなと思っています。
自己紹介しかできなかったあの日の私も、一応成長しましたと報告してみたいな・・なんて思っています。

あの日、手話が上達したい私は書籍を担当していたその方の勧めでひとつの資料を購入しました。
その資料が、とても手話を身近にしてくれたひとつのきっかけにもなっています。


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2008.04.18

継続するコト。

昨日、「みんなで広げよう しゅわわわ輪!」というコラボレーションブログ(?)を主催していたしゅわわ大王から、ブログ閉鎖の連絡がきました。
全国各地のライターさんが、さまざまな手話情報を投稿できるという画期的な企画だったので、無くなってしまうのは残念ですが、今は全国各地のろう協や情報提供施設などで動画ブログを開設するほど、情報量が増えてきたのでコラボレーションブログの役割も終わったということなのかもしれません。

私がインターネット社会に参加して今年で10年になります。
「ドシル」と名乗ってはや、10年。本当に早いものです。
10年も「ドシル」と名乗っていると、本名と同じくらい愛着があるHNになります。

ここ数年はブログが普及し、私の友人・知人もブログを開設した人が多くいますが、2~3年で閉鎖してしまったり開店休業で何ヶ月も更新しない状態になってしまうヒトも少なくありません。
それぞれ忙しいので、仕方がないのですが私としては少し淋しい面もあります。
ブログを見ると、メールや電話をしなくても元気な様子が伝わってくることが多いからです。

10年前、個人が立ち上げたミュージシャンのファンサイトも多くありましたが、今も残っているのはとても少ないように思います。
中には、公式サイトがオープンしてファンサイトは閉鎖したなんていう発展的閉鎖もありますけれど・・・。

私は1998年に「Docile's Garden」という個人サイトを立ち上げました。
その残骸(?)が、こちら^^;; 
トップページのURLはそのままですが、コンテンツの内容は残っていません(笑)

当時は、HTMLを使ってホームページを作ってみたかったので作ってみた内容のあまりないサイトでした。
好きな音楽のことと、F1のこととと福祉関係の仕事のことなど書いて、あとはBBSと日記があったくらい。
それを思うと、私のインターネット日記はブログも入れれば10年続いていることになるのですが、その割りに誤字があったり文法的に怪しい文章があったりで、日本語力の向上が見られないですね^^;;;
でも、文章を書くのは苦にならないので、色々な場面で原稿の依頼を受けても断ったことがありません^^;;;
そういう意味では、少しは役に立っているのかもしれません。

この頃はまさか、素人の私がホームページの作成を依頼されることになるとは、思いもよらず、ただHTMLタグと格闘していました。
「Docile's Garden」が今のようなスタイル(ただリンクしてるだけ^^;)になったのは「建築散歩」をオープンしてまもなくの頃(2002年)だったと思います。
内容が無くても、まだ初期の頃だったのでYahoo!Japanに登録されていたという、今ではかんがえられない状態でした^^;;;

そんな大昔のサイトの中身は全部削除したと思っていたのですが、なんと!当時の「保健室」コンテンツに掲載していた「点字のしくみ」がまだサーバーに残っていました^^;;;
興味のある方は、こちらをご覧ください。

社会人になってまもなく、全盲で盲導犬を連れている方と一緒にお仕事をする機会があり、そのとき点字を教えていただき点字でお手紙を書いたりしたのが、ホームページに点字の仕組みを掲載しようと考えたきっかけでした。
懐かしいです。

今、ここをご覧の皆さんの中には当時のサイトをご存知の方も多いので、みなさんも懐かしくご覧いただけるかもしれませんね。
この頃、猫は飼っていなかったけどちゃんと猫が走っているんですね(笑)
自分で作っておきながら、笑ってしまいました。

始めることは、割りと簡単だけど継続することはなんでも難しいような気がします。10年、こんなことをやっているってことは私の生活スタイルに合っているのだと思います。
無理にがんばっているつもりはないですから・・・。
これからも、まぁボチボチ、続けていけたらいいなと思います。

私が、この時代に生きたひとつの記録として・・・。

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2008.03.24

センバツ高校野球

先日、TVをつけたら我が母校の1回戦の1回表でした。
そういえば、センバツの出場が決まったんだったわ・・と、甲子園で行われている試合の中継を見て思い出した私ですm(__)m

ばたばたと色々やっていて母校の試合結果はどうだったのだろう・・と、気にはなっていたものの「魔法の入口」もあったし、仕事もあったしそのままでしたが先ほど某レフリーさんのセンバツ結果ブログ(?)を見て1点差で1回戦敗退したことを知りました・・・。
残念。
ユニフォームが少し変わったなぁとか、監督は今誰なんだろうなんて思いながらちらっと中継を見たのですけど。

私が高校生のとき、野球部の監督は地理の先生でもありました。
私は教わっていないけど^^;
学校に私物を置いておくのは禁止だったのですが、みんな机の中とかに教科書を置いていったりして監督に見つかって、野球部の練習に参加させられた男子とか(笑)ランニングさせられた女子なんかもおりました^^;;

私の母校は、当時は道内一大きな室内練習場がありました。
毎日朝練をやっていて、私が登校する時間にはグラウンドにカキーンという金属バットの音が鳴り響いていたのが印象深く残っています。

数年前に久しぶりに母校を訪れたら、私が1年のとき新任だった国語の先生が「ちょうどよかった、聞きたいことがあったのよ~」とヒトの顔を見るなり言うではありませんか(笑)
ちょうどよかったって(笑)しょっちゅう会っているわけでもないのに・・・まったく(笑)
あの学校の先生方のそういう大らかなところ、好きですけれど^^;

久しぶりの校舎は、私のイメージよりも古めかしくなっていてなんだか月日の流れを感じました。
大学も移転しちゃったしなぁ・・・なんて思ったりもして。
私が高校生のときは、敷地内に大学もあって都内のナンバーをつけた大学生の車もよく駐車場に止まっていたんですけどね~。
今は、生徒数も減少しているし市の人口も減っているだろうし・・・と考えると、校舎を建て替えたりするのも大変なのかもしれませんね。

センバツの話題から、ずいぶん外れちゃったけど(苦笑)
夏も出場できたらいいのには・・・。
夏は駒大苫小牧もいるし、無理かなぁ?
なんだか久しぶりに、声がかれるまで大声だしてスタンドで応援したい気分になってきました(笑)

私の母校は私が在学中は、ブラスバンドが下手で応援も大変でした(笑)
函館大有斗のブラスバンドはとっても有名で、上手だし人数も多いしうらやましかったものです。
この間の中継、もっとゆっくり見ておけばよかったです・・・残念。

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2008.03.22

母の誕生日

先日、母の誕生日だったのを忙しさにかまけてすっかり忘れていましたm(__)m
しかも、誕生日の当日、母に会ったのに!!
プレゼントをあげないまでも、お誕生日だねって言ってあげればよかった・・・と、後悔したものの気がついたときにはすでに数日経過していました。
母もよく私の誕生日を忘れるので、似たもの親子ということでしょうか^^;;

そんなわけで今日は母のお話。
私の母は私と全く違って、あまり外へ出たがらない人です。
知らない土地へ行くのもあまり好きではありません。
私が初めて、仕事で海外へ行くとき心配して電話口で泣き出したようなヒトですから^^;;

そして、私と違って手先が器用です。
父が不器用だったので、私は父に似たに違いない(笑)

私の母は若いとき、洋裁の先生でした。
母の母、つまり私の祖母は和裁の先生だったそうです。

私が子供の時、母はなんでも手作りで作ってくれました。
中学時代は制服も、母が作ってくれたし、自分の好きな生地を買って「この服が欲しい」と雑誌やスタイルブックなどを持っていくと、型紙からおこして作ってくれました。

だけど、どこか職人気質というか(笑)
こと、洋裁に関してはきっちりしないと気がすまないようでした。
だから、家庭科の宿題で私がテキトウなことをしていると許せないらしく口やかましく言ってきます。
それが嫌で、私は洋裁も編み物もダイキライになりました^^;;;
褒めて伸ばしてくれないんだもん(笑)

思春期だし、やることやること貶されると嫌になるんですよね。
もっとちゃんと教われば良かったなと思うこともありますが・・・。

あるとき、家庭科の宿題でスモックを作りました。
明日提出、という時に私が家で作業をしていたらいつものように母が口も手も出してきて(笑)最後には、「もう遅いし私がやっておくから早く寝なさい」と言い出しました(>_<)

私ももう面倒くさいし、母に任せて寝てしまい翌朝を迎えると、ちゃんと完成していました☆
母いわく、「少し面倒で雑にやったけど、ちょうどいいでしょう」とのことでした。
家庭科の先生にバレるかと思ったのですが、母の手の抜き方がうまかったのかそのスモック、作品展で金賞をもらってしまったのです(苦笑)
私は殆ど、やっていないのに(>_<)
先生に褒められたけど、なんともバツが悪かったのを覚えています^^;;

そんな母も、今では目が悪くなり眼球に腫瘍が見つかったりして洋裁も編み物もしていません。
それは、本人にとってとても淋しいことのようです。

新しいことをはじめたり、新しい環境になることが人一倍嫌いな母ですが、重い腰を上げて北海道から横浜へ来て3年目。
横浜にもなれ、雪の無い冬を快適に過ごしているようでほっとしています。

母はスモックのこと、覚えているかな^^;;;
今度、聞いてみようと思います。

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2008.02.21

北大学力増進会

中学時代「北大学力増進会」というところに通っていました。
まぁ・・・平たく言うと塾というか予備校のようなものです。
私は夏休みや春休みの2週間(くらいだったと思う)の集中講義に、中2・中3と通ったような記憶があります。

とにかく先生方が面白い!!
私は岩見沢の教室だったので、来ている生徒は岩見沢市内の色々な中学校(田舎だけど、中学も高校も複数なるのです)から来ていただけではなく、周辺市町村からも様々な学校の子達が来ていました。
そういった学区を超えた友人ができるのもとても楽しくて、講習が終わったあとや学校が始まったあとも交流があり、今でも連絡を取り合っているヒトもいるくらいです。

先生は北大の学生が多く、飽きないようにいろんな工夫をしながら授業をしていました。
それこそ、チェッカーズの歌を歌ってくれたり(笑)
英語担当の先生が、尾崎亜美さんのファンで尾崎さんの曲を聞かせてもらいました。
それが、初めて尾崎亜美さんの曲を聴いたきっかけです(笑)

私が中学生時代は、岩見沢市の市役所の近くにある小さな建物を借りて講習をやっていましたが、高校生の頃にはTVでCMするほど、地元では結構有名な学習塾(予備校というべきなのかなぁ?)だったと思います。
オリジナルテキストも充実していて、本当によかったです。
講習会の料金、あの当時でいくらだったのか気になるところですが^^;;;

それでも、地方の塾的なイメージが強かったのですがさきほど初めてインターネットで検索してみてビックリ!
なんと!「進学会」(LINK)の名前で東証一部上場しているではありませんか~。
いや~、びっくりしました。
ホームページには、「1972年、札幌市内でわずか20名の会員からスタートした進学会。」とありました。
私が通っていたときはもう既に設立から10数年経ち、道内ではそれなりの規模だったようです^^;;
それにしても・・・。
北海道だけ「北大学力増進会」と、昔からの名前ですが他のブロックは「東北大進学会」「東大進学会」など「進学会」になっているんですね~。
・・・たしかに、「学力増進会」ってすごいネーミングです^^;;

昨年、増進会友達の最後の独身がついに結婚しました。
昔は携帯もメールもなかったけど、家の電話を使って長電話して・・・とてもいい想い出です。

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2008.02.16

突然、チェッカーズのコト。

突然ですが、チェッカーズを聴いています。
しかも、ipodに入れて・・・。

きっかけは、最近夫がはまっているYouTube。
ここで、懐かしい映像など色々見ていました。
ビートルズとかビーチボーイズなどなど・・・。
その中に、藤井フミヤさんが歌ったビートルズナンバーがあったんですよね~。
ああ・・懐かしいなぁと、CDラックを探し1992年に発売になったチェッカーズのベスト盤を出してきました^^;;;

小学生の頃から杉真理さんが好きだった私ですが、中学時代はチェッカーズ全盛期!
高校生の頃は、ラジオ番組に投稿したハガキでチェッカーズのコンサートチケットがあたりアリーナ席前から7列目でコンサートを見たこともあります。
真駒内アイスアリーナ(札幌)でですが^^;;;

EPも結構持っていたんですけど・・・。
探したところで、レコードプレーヤーはないのですが・・・。

そんなわけで、「魔法の領域」の次にチェッカーズベストが入っている私のipodです。
「ジュリアに傷心」、「ミセスマーメード」、「ギザギザハートの子守唄」などなど・・・。
懐かしいです。
中学時代、男子の多くは藤井フミヤさんの真似をして前髪を長くたらしたりチグハグ(?)なチェックの服を着たりしておりました。
チェッカーズは解散したし、メンバー間のごたごたも話題になったりもしましたが私にとってはどうでもよかったりします。
青春の1ページに「チェッカーズ」があることには変わりがないのだから・・・。

まだメンバーみなさん40代だと思いますが、既にドラムの「クロベエ」は舌癌で他界していますし、復帰したものの
「モク」も癌を患って闘病生活を送っていたと記憶しています。
最近はまた、TVに出演しているようですが・・・。
「ユウジ」は時々、こいちゃまこと小泉信彦さんと一緒にライブに出演していますよね*^^*
最近私は、Seamusのライブへ行っていないのですが生で、しかもあんなにまじか(マンダラ2だったかな?)でライブを見たときはやっぱりちょっと感動でしたlovely

「ナオユキ」も時々テレビで見かけるし「フミヤ」と兄弟でも活動していますよね。
リーダーだった「トオル」も時々見かけます。
中高生だった私も、すっかり成長しちゃいました☆
チェッカーズのみなさんも年を重ねていくわけですよね・・・。

中高時代の私は、杉さんと大滝詠一さんと伊藤銀次さんと尾崎豊さんと、チェッカーズとスターダストレビューと(笑)
なんとも奇妙なレコードがそろっておりました^^;;;
他にも飯島真理さんとかビートルズとか色々ありましたけど。
でも、基本的に中高時代と今と音楽の趣味は変わらないですよね~。

高校時代の友人が、以前このブログを見て「ドシルちゃんは、そういえば高校時代から杉さん好きだって騒いでたよね~」と言っていました。
そんな彼女は、ハウンドドックファンでしたnote
たまには、思い出とともにチェッカーズもいいものです☆

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2008.01.22

女の一生

先週、突然伯母が亡くなり週末は告別式に参列しました。
享年69歳。
食道がんと診断されたのは、昨年の11月頃。
末期ではなかったのですが、治療がうまくいかなかったようで感染症を起こし亡くなりました。

いとこは、自宅の近くの病院ではなく国立がんセンターなど大きな病院へ行かせなかったことを、少し後悔していました。
でも、自宅近くの病院を選んだのは伯母自身なのです。

いとこはアメリカで結婚し、永住権を得ています。
日本にはなかなか帰ってきません。

そして、伯母の夫である私にとっての伯父は目が見えません。
若いころは、国体に出場したこともあるスポーツマン。
バリバリ仕事をするタイプでした。
私の母の兄です。

それが、私が中学生ごろから緩やかに視力が低下し私が高校を卒業するころには完全に失明してしまいました。
原因は判らないと、医者に言われました。
さだまさしさん原作の「解夏」を見るとつい、伯父を思い出します。
けして、ベージェット病だったわけではないと思うのですが・・・。

伯父は、当時の主治医の心無い「もう、若くないから点字を覚える必要もないでしょう」という言葉を鵜呑みにし、点字を覚えることをしませんでした。
今では70歳を過ぎています。

白杖も盲導犬も拒否し、外出の際は伯母が杖の代わりでした。
そんな伯父を心配し、伯母は自宅の近くの病院に入院したのです。
自宅から近ければ、週末に自宅へ帰り伯父に会えるから・・・と。

伯父と私の母は少々年齢が離れています。
母が結婚する前は、伯父夫婦や祖父母と一緒に母も暮らしていました。
母が私の父と結婚したあと、伯父夫婦と祖父母は伯父の仕事の都合で都内へ引越し、北海道を後にしています。

その後、祖父母が亡くなるまで面倒を見てくれたのは伯母でした。
伯父が失明した後も、出かけるときはいつも一緒で本当に白杖の代わりになっていました。
私の父の葬儀には、伯母が伯父を連れて北海道まで来てくれたほどです。
祖父母のお墓を守ってくれていたのも伯母でした。

伯母は多くの苦労をしたと思いますが、いつも明るく前向きな人でした。
60歳を過ぎで、インターネットをはじめメールも使いこなせたし、いとこがアメリカから帰ってきたら、車で成田まで迎えに行ったりもしました。

美味しいものが大好きで、ケーキもワインもとにかく食べ歩くのが好きだったので、食道がんは辛かったことと思います。

そんな伯母の人生を、母やいとこ達と葬儀の際に振り返りました。
あんなことがあったね、こんなことがあったね・・・と。
伯母の魂は、今も伯父の近くにいるような気がします。

ご冥福を、お祈りします。

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2007.10.31

チェルノブイリ原発事故のコト。

ハロウィンの日の明け方、こんなことを思い出しました。
お時間のある方、お付き合いください。
なんだか以前もブログに書いたことがあるような気がしていますが、書いてしまおう^^;

米ソ冷戦真っ只中の1986年4月26日未明にチェルノブイリの原発事故がありました。

NPO法人チェルノブイリ医療支援ネットワークのサイトによると、
『爆発により一瞬のうちに原子炉が破壊され、火災が発生しました。火災を消火するために、ヘリコプターから原子炉の炉心(ろしん)めがけて総計5,000トンにおよぶ砂や鉛などが投下されました。火災は爆発から10日後の5月6日にようやく収まりました。』とのことです。

私は、この10日間のことをよく覚えています。
北海道では騒然としていました。
私が住んでいたのは北海道の内陸ですので、ソ連(チェルノブイリはウクライナ共和国)に近いという感覚はありませんでした。
でも、原発のあときのこ雲があがったとか、風にながれて放射能が日本にもくるとか黒い雨が降るからぬれてはいけないとか、いろんな噂が飛んでいました。

私は、井伏鱒二の『黒い雨』が頭をよぎったりして、スゴイ妄想が広がったような気がしています^^;;;

部活の練習のときも、「黒い雨」が降るかもしれないとか「雨にぬれないように」とか・・・きっと顧問の指導はなかったと思うのですがまことしやかに「雨に注意」は部活の中でささやかれていました・・・。

私はあのときの、ささいな恐怖(今にして思えば)を思い出すたび、平和な国であってほしいと願います。
チェルノブイリの事故から21年。
今なお、後遺症などに苦しむ人がいます。
長崎・広島に原爆が投下されて60年以上たっても、後遺症に苦しむ方がいらっしゃるのですがら、不思議なことではありませんが・・・。

何もできない非力な1市民ですが、ただただ平和と武力行使のない国際社会を願ってやみません。

ハロウィンの朝のひとりごとです。
明日から霜月ですね^^;;;

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2007.07.27

伊勢丹と三越

最近は、どの業界も再編が著しいですね。
気がつくと、ライバル会社と業務提携したり合併したり・・・。

最近のニュースで、びっくりしたのは伊勢丹と三越の経営統合を視野にいれた業務提携を始めるというもの。
びっくりしました。
このふたつの百貨店に私はちょっとした縁があったりします。

学生時代、私が所属していたサークルでは代々日本橋三越本店でアルバイトをする流れがありました。
希望すれば、簡単にバイトが見つかるのです。

私は催事会場のレジをやっていました。
概ね、土日が中心でした。
当時で時給千円!
デパートのレジはスーパーと違って、椅子があるし社員さんがお客さんからお金を預ってきてレジまできて1品か2品打って、おつりを社員さんに渡すので接客もなく、とてもいいアルバイトでした。
一応、三越の制服が貸与されて制服を着て仕事をします。
店内で買い物するときは社員割引で買い物ができました。

日本橋三越本店は、建物も歴史があるし内装も「これぞ老舗!」といった感じで風格があるし、社員のみなさんも老舗デパートの誇りを持っている感じでした。
顧客層も、年配の富裕層がターゲットなのでお客さまに若いヒトは殆どいないし、社員割引で買えるといっても買いたいものもない・・・あっても高くて買えない・・というような品揃えでした^^;;

でも、社員のみなさんは本当に優しくて、三越でのバイト期間の忘年会や新年会は、人形町今半など高級店に連れて行ってもらったのを覚えています(笑)
デパートって景気がいいなぁなんて、学生ながら思いました。
おいしいお店をずいぶん教えてもらいました。
・・・学生じゃ行けないんですけど(汗)
社会人になったら、ああいうお店に行けるようになりたいなぁなんて漠然と思いました。

一方、伊勢丹。
新宿店はデパート1店舗としては日本一の売上高なんですってね。
知りませんでした。
三越とは正反対で、革新的で斬新なイメージがあります。
客層も、比較的若いヒトが多く若者に人気のお店だと思います。

ここで私は、人事部と伊勢丹健康保険組合のアルバイトをしたことがあるのです^^;;
人事部では、会社説明会の受付をやったりとか資料の発送ラベルをパソコンで作ったりとか・・・。
健保組合では、レセプトのチェックとか。

伊勢丹でも社員割引で買い物ができました。
人事部も健保組合もデパートの中ではなく、他のビルに入っているのですが、社員食堂はデパート内なので、仕事に行くとかならずデパートの中を通過します^^;;
三越の時と違って、欲しいものが多くて困りました。
あと、伊勢丹はラグビーの社会人クラブがあって、広報部には有名選手が所属していたのを覚えています。
名まえは覚えていませんが^^;;;
他にも、水泳かシンクロの選手もいたような気がします。

三越にも伊勢丹にも1年半くらいいたかなぁ・・・。
伊勢丹の社員もみんなやっぱりグルメで、どこがおいしい何がおいしいと新宿のお店を教えてくれたり、私が辞めるときも社員割引で買えるとはいえなんだか恐縮するようなものをいただきました。
当時の私には、あまり価値がわからなかったんですが後にびっくりしたのは、フェイラーのタオルとか、ミキモトの文房具とか^^;;;
当時の私は何も知らなかったなぁ・・・。

今の私は、三越にも伊勢丹にも行くこともありませんがニュースを見て驚きとともに、なんだか当時のことが懐かしくもなりました。

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2007.07.15

湘南ユースホステル

北海道の高校を卒業し、都内に進学してから現在まで10数年。
今でこそ、首都圏の地理もそこそこ頭に入りどこに行くにはどの電車というのも、覚えている私ですが(相変わらず、方向音痴ではあるけれど^^;;)ハタチ頃までは、首都圏の電車網に慣れないし、今のように駅すぱーとがあるわけでもなく、いつも路線図をにらめっこしてからお出かけするような状態でした。

学生時代、夏休みの1週間を湘南ユースホステルで「ヘルパー」という活動をしたことがあります。
今でこそ「ヘルパー」と聞くと、介護を連想しますがユースホステルのヘルパーとは、いわばユースでのボランティア。

私がいた湘南ユースホステルは茅ヶ崎にあって(今では、どこだったかよく判らない^^;;)、海岸が近かったので夏は海水浴目当ての若い方が多く滞在していました。
私の記憶では、あまり感じのいいユースホステルじゃなかったような気がします^^;;
建物もあまりキレイじゃないし、ペアレントさんも一見気難しい感じだったかな。
自分にも他人にも厳しい方だったように記憶しています。
でも、陽気なお客さんやヘルパーさんが集まり、夏はけっこうにぎやかでした。

たった1週間ですが、寝食をともにして日中も一緒に働いていると他のヘルパーさんとも仲良くなります。
当時、フェリス女学院や横浜国大の方と一緒に働きました。

スケジュールはあまり覚えていないのですが^^;;
たぶん、5時ごろ起きて朝食の準備を手伝って、お客さんが朝食を取ってお見送りしたあとに自分達の朝食と片付け、そのあと客室の掃除などなどやったような気がします。

夜、宿泊客とのコミュニケーションの時間にやるゲームを考えたり、みんなで茅ヶ崎の花火大会へ行ったり、お金をもらえるわけではないのですがけっこう楽しかった想い出があります。
私はまるまる1週間いたのですが、(いや、2週間だったような気も・・・汗)個々人の都合でお手伝いに来ているので、ヘルパーさんの顔ぶれは変わるわけです。
帰るひと、来るひと。
男の子、女の子。
知っているヒト、初めましてのヒト。
宿泊客も、2泊程度でどんどん変わります。
まさに、一期一会。

聞いた話によると、湘南ユースホステルは閉館したそうです。
とても場所がよかったような気がしているので、その後どうなったのか気になっています。
・・・というか、当時、右も左もわからない状態だった私は茅ヶ崎駅まで、他のヘルパーさんに迎えに来てもらい、帰りも都内まで車で送ってもらった記憶があるので、「海に近かった」ということ以外覚えていません・・・。
湘南ユースホステルは、どこにあったのかなぁ?
一度、何年か前に車で近くを通った気がするのですがよくわかりませんでした^^;
もし、まだ建物が残っているなら外観だけでも見に行ってみたいです。

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2007.06.13

歯医者さん

6年ぶりに歯医者さんに通い始めました・・・。
よくぞ6年前のレントゲンが残っていました(汗)。
歯医者さんが好きなヒトはまずいないと思います・・・。

以前、ろうの友達が歯医者へ行くとき指示をどうやって聞くのかきいたところ、ほとんどは筆談でした。
中には手話通訳者に通訳してもらうというヒトもいましたが・・・。
でも、歯を削られているときなど目をつぶることが多いのですが、ろう者はどうなのかなぁ・・・?

中学生の頃、私は今以上に好奇心が旺盛な子供でした。
歯医者さんがなんてことばを発すると、歯科助手さんがなにをするのか見るのが好きという変な子でした。
あるとき、口をあけて歯を削られていたときも目を開けていたらなんと!
けずられた破片?のようなものが目に入ったことがありました(汗)
先生に「目は閉じようね」といわれたのを覚えています。

田舎の歯医者だからでしょうか・・・。
小さな子供が、泣かずにがんばって治療を受けたら「よくがんばったね」と言って先生がチョコレートをあげるような歯医者さんでした^^;;;
中学生にはくれなかったけど(笑)

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2007.04.17

業界ルール?

デビュー前から知り合いだった女の子が何年か前にメジャーデビューしました。
ずっと歌手になりたがっていたので、本当にめでたい☆

彼女がデビューして何年経つだろう・・・。
シンガーソングライターとして、活躍しているのを見るにつけちょっとワクワクします。
ミュージックステーションなどの番組に出演すると、まるで親のような気分でハラハラしたりして^^;;

私は基本的には音楽とは縁のない仕事をしていますが、色々なご縁で音楽関係の知り合いが増えて、ライブイベントのスタッフをするため石川県まで行かせていただいたり、発売前の楽曲を聴かせていただいて言いたい放題(?)言わせていただいたり・・・ミキサーさんやプロデューサーさんから、ちょっとした依頼を受けたり、レコード会社の方に紹介いただいた音楽ライターさんに、私の本業のお仕事をお手伝いいただいたり。

ふと考えると、ずいぶんと音楽業界の方にはお世話になっているなぁと思う今日この頃です。
ありがたいです。

さて。
デビューしてがんばっている彼女の何枚目かのシングルのレコーディングのとき、ほんのちょっとだけレコーディングスタジオへ見学に行きました。

何テイクかとって、スタッフで聞き比べて「こっちがいい、あっちのここがどーだ」とか話しています。
素人の私にはなんのこっちゃ。
どのテイクも同じように聴こえます。
正直違いがわかりません^^;;;

プロってスゴイですね。
ついこの前まで、ごく普通の女性だったのにあっという間にプロの顔なんだなぁ・・・。
まぁ、前から早くデビューしないかなぁって思ってはいたのだけれどね。
今では、押しも押されもしないいっぱしのシンガーソングライターです。
ホールコンサートも大盛況。

私の宝物のひとつに、彼女のサインがあります。
彼女のシングルにしてもらったサインもあるのですが、全然関係ない洋楽のCDに彼女のサインをもらったものもあります^^;;
ちょうど彼女に会ったとき、たまたま私が持っていたCDがその洋楽だったんですよね^^;;;

一度、私がある音楽イベントを企画したときゲストに彼女を呼ぼうと思ったら、事務所のOKがもらえなかったことがあります。
直接、マネージャーさんともやり取りをしたけれど、最終的には所属レコード会社のOKがもらえませんでした。
事務所に所属するってことは、そういうことなんだなぁって痛感しました。
本人がやりたいといっても、事務所でOKできない場合があるんですね。

当時、彼女はまだデビューしたばかりくらいで、ヒット曲はなかったけどちょっとしたCMソングをうたっていました。

業界での仕事の長さが関係あるのかどうかわかりませんが、別のべテラン女性アーティストの場合は、まず本人に打診して快諾していただいた後、形式としてその話を、マネージャーさんに連絡して欲しいといわれて、マネージャーさんにコンタクトを取ったことがあります。

マネージャーさんに電話をすると「本人から聞いてます~。OKですよー」とあっという間にイベントの話が進みました。
ああ・・・本当に、形式的な連絡でした。

それが業界のルールなんでしょうね。
ベテランだから、やりたいこともOKで新人だからダメだったのか、それとも事務所の問題なのかわかりませんが、色々と勉強になったできごとでした。

私は業界人ではないので、けっこう掟破りをしているのかもしれません^^;;
当分、音楽イベントをやることもないとは思いますがもう2年もすると五島さんのサイトは10周年ですね~。
なんかイベントやりますか?
(誰に問いかけているのやら^^;;;)

ちょっと考えてみたいと思います。

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2007.02.15

『禁じられた遊び』を見ると・・・。

昨日の夜、NHKBSで1952年のフランス映画『禁じられた遊び』が放送されていました。
私はこの映画に強烈な思い出があります。
夕べ、22年ぶりにこの作品を見ましたが最後まで見ることができませんでした。

なぜ「22年ぶり」と正確に解るかというと、私が初めてこの作品を見のはちょうど「戦後40年」と騒がれた1985年のお正月だったからです。
1985年のお正月、戦後40年経ち、日本は高度経済成長を遂げもう「戦後は終わった」と盛んにTVで言われていました。
ベルリンの壁が崩壊する前で、まだ「ロシア」ではなく「ソ連」だた時代です。
アメリカとソ連は冷戦状態にあり、ソ連の国境に比較的近い北海道では冷戦は身近なものでした。

当時のニュースはとてもアメリカよりで、ソ連はとても「怖い国」的な報道がなされていたように記憶しています。
それが本当に正しいソ連像なのか、私は子供ながらに「ソ連に行って見たい。クレムリンに入ってみたい」と言っていたものでした。
当時の同級生には「ソ連に行ったら殺されるよ」とまで言う子がいたほどです^^;;;
そう考えると、やっぱり北海道で育った子供と関東の子供では同世代でも違いますよね^^;
大学時代の同期で、「ソ連が脅威だ」なんていっていたヒトはいませんから^^;;;

「ソ連は怖い国かも」という潜在意識があり、お正月の「戦後40年」の連呼があり、そして夜中に一人で観た『禁じられた遊び』。
ご存知の通り、この映画は第二次世界大戦の際ドイツの進攻で両親を亡くしたポーレットと、農村の少年ミッシェルの物語です。
映画の冒頭は、橋をわたる時にドイツの空爆に合いポーレットの両親が死んでしまうシーンから始まります。

私にはそのシーンが強烈で、その日の夜、夢を見ました。
どんな夢か・・・^^;;

北海道にソ連が攻めてくる・・・という夢です。
冷戦状態の均衡を破り、ソ連軍が北海道を攻撃してきます。
でも、北海道に住む日本人は戦後40年経っていて戦争の仕方を忘れてしまいました。
防空壕の作り方も忘れ、逃げ方も忘れてしまった一般市民。
上空から爆撃していたソ連軍のヒトたちが、その様子を哀れに思い空爆を辞めて防空壕の作り方や、空爆の際の逃げ方などを指導してくれました・・・(ありえないけど、夢ですから^^;;;)。
で、一通り指導してくれたあと「今の要領で逃げてください。では、もう一度上空から攻撃します」とソ連の軍人さんが言って(何語か不明^^;;)また、上空から攻撃してくる・・・という、内容の夢でした。

なんと間抜けで、なんと恐ろしい夢でしょう(>_<)
そんなわけで、『禁じられた遊び』を観ると今でも鮮明にその夢を思い出してしまいます。
冷戦も終わり、ベルリンの壁も崩壊しましたが子供ながらに当時不安だった思いは私の心の片隅に今も残っているようです。

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2007.01.30

大学の掲示板

「掲示板」と聞いてみなさんは何を思い出しますか?
ここ年ほどの間で、私の「掲示板」のイメージは大きく変化しました。
今は「掲示板」と聞くと、悲しいかなインターネットのBBSを想像します。

学生時代、「掲示板」は命綱のようなものでした。
休講のお知らせや学事などからの呼び出し。
レポートの提出期限など、とにかく自己責任で掲示板から情報を得なくてはいけませんでしたよね^^;;

がんばって早起きして行った1限なのに行ったら休講だった・・・なんて経験、ありません?
前日、掲示板を見忘れてせっかくゆっくりできる朝のひと時だったのに、行ってしまい、出席にもならないなんてことありますよね^^;
今思えば、懐かしいですが当時はがっかりしたものです。
部室や学内のカフェや図書館で暇をつぶしたりしました。

休んだつもりが、運良く休講だったなんてこともありました。
そんな時はラッキーでした(笑)

私が学生の頃は、今のように携帯電話やメールがないので基本的には自力で掲示板を見て情報収集するのと、仲のいい友達とは電話で「あの掲示、見た?」なんてやっていましたが、メールなら友人に一斉に送信できるけど電話はそうは行きません。
しかも、携帯ではなく家の電話だったりするので場合によってはかけにくかったり(苦笑)
だから、個々の情報収集力は必然的に養われた気がします^^;;

今は、大学によっては事前に登録された学生の携帯メールあてに休講情報が流されたり、インターネット上に学生向け休講掲示板があって家からでも携帯からでも、休講情報を見ることができるようです。
・・・ますます学校へ行かなくなって他の学生たちとコミュニケーションを取らなくなるような気がします^^;;
時間を有効に活用できて、便利な面もあるのですが。

私は学校に比較的近かったので、お休みのときでも買い物のついでに掲示板をのぞいたり、アルバイトの帰りに掲示板を見たりしました。
友達と会って、自分の見落としていた情報をもらったりとかね。

今と昔、どちらが良いかは一長一短な気がします。
・・・微妙。
今、自分が学生なら電子掲示板で家でも休講情報が見られる方がいいけれど、もしも自分が学生だった時からそうなっていたら、今のような交友関係はなかったかもしれません。
学生時代に共有した時間、休講を知らないで無駄に話していた時間も含めて友情や信頼関係を育むのには大切な時間だった気がしています。

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2006.11.02

偶然の再会

小学生のとき、同じクラスに生まれつき片耳が小さい男の子がいました。
小さな耳を隠すため、いつもおかっぱにしていました。
彼は小さい耳側から話をすると聴こえません。
本当に、耳が10円玉くらいしかないのです。

当時聴力のことなどあまり気にしたことがありませんでしたが、今にして思えばその男の子との出会いが、私のはじめての「聴こえないこと」との出会いだったような気がします。

私は授業中の先生の話などで、彼が聞き取れなかったことなどメモ(といえるほどのものじゃないんだけど^^;)を取って教えてあげていました。
普段は何の問題もないけれど、先生が立っている位置などによって聞こえずらい時があったようです。
家が近所だったし、親同士も仲が良かったので小さなときからよく一緒にあそんでいました。

当時、「手伝っている」とかそういう意識はなかったと思います。
活発な男の子だったので、耳のことでいじめられるとかそういうことはなかったように記憶しています。
ただ、聴こえる側の耳を下にして眠っていると目覚ましがなっても聴こえにくいらしく、遅刻することが時々ありました。

小学校4年生か5年生の頃、小さな耳を手術して大きくすることになりました。
当時子供だったので、手術の方法をよく覚えていませんが、お尻あたりの骨を削って耳に持ってくるというような説明を受けたような気がします。
その手術をすれば耳が大きくなるだけではなく、ある程度聴こえるようになるということでした。

今思えば、彼は小耳症と先天性外耳道閉鎖症だったのですね。
・・・こんな難しい名前小学生が覚えられるわけがないけれど^^;;;

けっこう長い間入院して、手術は1度きりじゃなかったと思いますが中学生の頃には聴力に問題がなくなっていたと思います。
中学校は違う学校だったのであまり話した記憶はないのですが、たまに見かけると相変わらず耳は隠していたものの髪の毛が金髪になっていたびっくりしたことがありました^^;;;
時代ですねぇ~。

そんな彼は今、形成外科のドクターになっています。
小耳症は6000人~1万人に1人とされる稀有な症例なのですが、小耳症の研究もしているそうです。

たまたま某所で再会し、何の因果か私が手話に細々と関わっていることを知り笑っていました。
小学生のときは手話なんて言葉も手段も知りませんでしたが、こういう小さな出会いのひとつひとつが、色んな影響を与えているんでしょうね。

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2006.10.20

修学旅行のコト。

学校や地域によって時期も違うと思いますが、修学旅行生をちらほら見かけますような気がします。

最近の中学校あたりでは、ただの観光ではなく修学旅行で職業体験をさせる学校もあるそうです。
フリーター・ニート対策の一環なのか、「13歳のハローワーク」の影響なのかなかなかユニークな取り組みですよね。

私の場合高校まで北海道だったので、修学旅行先も首都圏の方と比べるとちょっと面白いと思います^^;

・小学校~洞爺湖(1泊2日)
・中学校~函館と青森(2泊3日)
・高校~東京と京都&奈良&大阪(4泊5日)

・・・というのが私の修学旅行です。
北海道では比較的一般的だと思います。
(道内のどこに住んでいたかにもよるけど)

例えば稚内などの小学校では、修学旅行で札幌に行ったという話しも聞いたことがありますが、私が住んでいた道南あたりでは洞爺湖が一般的でした。
洞爺湖へ行って、昭和新山を見て・・他にどこへ行ったかなぁ?
夜、ホテルで枕投げをして先生に怒られた記憶があります^^;;

中学時代は函館観光をして函館に1泊。
2日目は青森へ行って体験学習でねぷた金魚をつくりました。
持って帰ってくるのが大変でした。
私達の1年先輩は十和田湖へ行ったそうですが、私達は行きませんでした。
残念。

そして、みんなが驚く高校の修学旅行。
これも、私の世代では比較的一般的コースでした。
私は私学だったのですが、公立高校でも概ね似たようなコースです。
ただ、公立の場合往復青函トンネル利用とかだったので大阪には行かなかったようです。

私の高校は帰りは飛行機だったので、大阪へ行って大阪城を見てから大阪空港から千歳空港へ帰ってきました。
今思えば、けっこう斬新なコースです(笑)

東京では班ごとの自由行動だったので、男の子は秋葉原へ行ったり女の子は原宿や渋谷へ行ったりしている班が多かったかな・・・。
横浜へ足を伸ばす班もありました。

私は上野と渋谷、原宿と明治神宮へ行きました。
宿泊先が横浜の鶴見だったので、先生に「青い電車(京浜東北線)に乗ってきなさい」といわれたのを覚えています。
でも、実際に乗ったのはシルバーに青のラインの電車で青い車輌ではありませんでした^^;;;;

横浜に1泊した後、新横浜から新幹線で京都へ向かい京都駅からバスにのりました。
京都市内に宿泊しながら京都と奈良を団体行動と班行動とで見て周りました。
薬師寺や平安神宮、二条城はよく覚えています。
それから、友人達と班行動で行った太秦の映画村(笑)。
映画村に行ったのは後にも先にもそれ一度きりです^^;;;

奈良公園で鹿に襲われる(?)クラスメイトがいたり、大阪城にはエレベーターがついていてとてもショックだったり、ばたばたとした修学旅行でしたがなかなか面白かったです。
久しぶりに、当時の写真でも見てみようかなぁ~?

ちなみに、うちの夫@横浜出身は高校の修学旅行で長崎に行ったそうです。
ただし、3つくらいコースがある中から選んだらしいですよ。
長崎以外は北海道と韓国って言ってたかな・・・?
都会の学校は違いますねぇ~^^;;

さて。
みなさんの母校はどうでしたか?
良かったら教えてください(^^)

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2006.06.28

高校生の頃のコト。

私は北海道で高校時代を過ごしました。
北海道の片田舎ですが、一応甲子園にも出場したことがある全国的にもそこそこ名前の通っている私立高校が私の母校です。

のびのびとした校風で、校則らしい校則はありませんでした。
野球部とスキー部とインターアクト部が有名だったように記憶しています。
特に野球部は、道内に誇る室内練習場があってグラウンドも広く校内の部活動の中でも一線を画していました。
一番驚いたのは、わざわざ箕島高校が練習試合にやってきたことです^^;;
何かのついでだったのかな・・・。
とにかく驚きました。

野球が好きだった私は、中学の担任に「甲子園に行きたいから、その高校を選んだの?」と言われたほどでした^^;;
(そんなわけないでしょう~と言いたい)。

毎朝、私が登校する時間帯にひろ~い学校の敷地を歩いていると野球部の金属バットの音が響いてきました。
私はそのカキーンという音を聞きながら登校するのが大好きでした。

当時はバンドブームだったこともあり、校内や近隣の高校の生徒合同のバンドがいくつもありました。
その頃すでに杉真理さんや松尾清憲さん、スタ☆レビなどが好きだった私ですが、周囲はレベッカとかプリンセスプリンセス、米米クラブ、BOOWYのコピーバンドが多くありました。
当時、地元で人気があったいくつかの高校生バンドはオリジナル曲の演奏をしたり、デモテープを作ったり、あちこちでライブをやったりして活動していました。
今でもデモテープが私の手元にあります。
高校卒業後、上京してきて、デビューしたヒトもいるし上京したけどプロになれずにいたヒトもいます。

当時、札幌のペニーレーンやベッシーホールというライブハウスによく通っていた私は、地元でも友人が出るライブにはよく行きました。
思えば、私が都内の大学へ進学を決めた理由のひとつには「たくさんライブへ行きたい!」というのがあった気がします。
・・・親には言いませんでしたけど^^;;;

そんな高校時代、部活動も勉強も文化祭も楽しくがんばっていたけれど、一番がんばったのが「高校生音楽祭」の活動だったと思います。

「高校生音楽祭」は今でも形を変えながら続いているようですが、私が高校生のころはまだ歴史も浅く、色んなことが大変でした。
高校生が企画・運営し、出演できるのも高校生だけというものです。
最終的には、全国大会が東京で行われるのですがその地方予選が各都道府県で行われます。

私は中学時代の同級生や、その他北海道内各地から集った高校生達と一緒にその「高校生音楽祭北海道大会」の実行委員をやっていました。
この活動は、めちゃくちゃ勉強になりましたよ。

ポスター作りや街角でのビラ配り、レコード店にチラシを置いてもらうことなど全部、自分達でやるのです。
大人はアドバイザーとしていますが、基本的には口を出しません。

まずは、音楽祭に出場するバンドを募集します。
楽曲はカセットテープで送られてくるので、それを聞いて1次審査を行います。
その作業も、高校生の実行委員で行います^^;
意見が分かれる分かれる(苦笑)。

2次審査はステージでの生演奏で、お客さんを入れて行います。
優勝すると、全国大会に出場できるのです(^^)
主催者側は、音楽祭を行う会場(市民会館)と当日のゲストは手配してくれますが、他はみんな実行委員の仕事なので、月に1~2回は札幌に集まって打合せをしました。
チケットのデザインもした記憶があります^^;

当日は、審査員も司会も高校生。
出演者も高校生。
客席も殆どが高校生です。

今、同じことをさせてもらえたらもっとスマートに上手にこなせるかもしれないな・・と思います。
今は、パソコンもあるのでみんなで顔を突き合せなくてもメールで相談もできるし。
でもあの頃、北見や留辺蕊や留萌、深川などなど札幌から離れた地域の人たちも集まって、知恵を出し合った経験は人生の宝物だと思います。

だって普通に高校生活を送っていたら絶対に出会うことがないんだもの。
それくらい、広い北海道で離れた地域に住んでいる人たちが集まっていました。
今でも、同じ高校の同級生と同じくらい連絡を取り合っています。

私は1年目は審査員をしました。
2年目は男の子と2人で司会をしました。
台本が今でも残っています。
今読むと、笑えます^^;;;

私が司会をしたとき、高校の友人が組んでいたブルースのバンドが出場しました。
高校生なのに、ブルースのオリジナル曲を歌っていました。
残念ながら、全国大会には進めなかったけれど・・・。
彼らはどうしているかな・・・。
社会人になってもしばらくは、バンド活動していたのは知っているんだけど。

同じときに出場した男性4人のバンドが数年後、バンド名も曲の感じも変わってプロデビューしました。
2曲ぐらい、売れてTVにもよく出ていました。
私も記念にアルバムを購入しました。
初めてTVで見たときは驚きましたが、昔の彼らを知るヒトたちのなかには「楽曲の方向性をあんなに変えてまで、デビューしたくない」と言うヒトもいました。
でも、デビューしなければ夢は繋がらないのなら1チャンスを生かすのもありだと、当時の私は思いましたが結局、売れなくなってしまいました。
でも、デビュー当時から好きなことをやらせてもらえるヒトなんてほんの一握りではないかと思います。

こんな風に、高校時代のことを思い出していると高校1年生まで音楽ライターになりたいと思っていたことを思い出しました^^;;;
今、日本語が難しいと頭を悩ませている私には到底無理な職業ですね^^;

もし、私が音楽ライターだったらものすごぉく偏った記事を書きまくったでしょう^^;;;

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2006.05.15

インターネット歴・・・?

Windows95が発売になって、世間が騒然となった頃私は初めてインターネットのホームページというものを目にしました。
当時はまだ、職場でもPCがひとり一台という時代ではなくてみんなで使っているPCが何台かある程度。
文書作成はワープロ・・・なんていう時代でした。

職場のシステム開発の人たちだけが、ひとり一台PCを持っていました。
それも今のようにノートPCとかではなく画面の分厚いハードディスクも大きなものでした。
そんなシステム担当の人が初めて見せてくれた「インターネット」の世界。
なんとも不思議でびっくり仰天したことを覚えています。
職場の中で何人もで、PCを取り囲んでインターネットの説明を受けました。
私にとってはインターネットだけではなく、スクリーンセイバーさえもものすごい技術のように思えました。

1年後、職場で安く買えたのでノートPCを買いました。
富士通のFMVでした。
安く買えたといっても、当時22万円くらいしたと思います。

しばらくはインターネットに接続することもなく、ただWordやExelを使ったりゲームをしたりしていただけで、猫に小判状態。
1998年になりるとPCがひとり一台あるのはごく当たり前の状態になっていましたし、インターネットも接続されてメールを使ってやり取りすることが比較的一般的になってきました。
私の職場でも大きなPCルーム(Mac)ができたりして、私もMacを使って遊んだりしていました。

そんなおりにある人からいただいた1冊の本。
「HTML辞典」でした。
世間では義務教育でもPCを取り入れようとか、デザイン学校ではイラストレーターやフォトショップを学んでCGのコースがあったりとか、ホームページ製作を学ぶ人が大学や専門学校でも増えてきた時代です。
好奇心だけは旺盛な私。
猫に小判だった自分のPCを自宅でネットにつなぎ、夏休みにHTML辞典を見ながらホームページを作ってみました(笑)
それが「Docile's Garden」(懐かしいヒトには懐かしいでしょ?笑)
今から、8年も前のことになります。

当時はみんながダイヤルアップだったし、午後11時からのテレホーダイの時間には回線が重くなったりと色々不便もありましたね~。
今となってはとっても懐かしいですけれど・・・。

今だから笑えるけれど、テレホーダイに入る前に私は1ヶ月の電話代が10万円を超えてしまったことがありました(>_<)
ホームページの更新作業に夢中になったり、杉さんのファンサイトを見つけて喜んだり、そんなことをしていて「オフライン」というのを知らなかったのでずっと繋ぎっぱなしにしてしまい、驚きの電話代になってしまったのでした^^;;
いやいや・・・高い授業料でした(苦笑)。

今は便利ですね。
ブログなんて当時、思いつきもしなかったです。
ホームページ製作ソフトを初めて使ったときも簡単でびっくりしましたけど、HTML辞典とにらめっこしながら、パズルを完成させるようにタグを打ったこともとてもいい思い出だし、とてもいい勉強になったと思っています。
あの頃、カウンターが動かないとか背景がちゃんとうつらないとか、IEは大丈夫だけどネスケでは表が崩れるとか、いろんな試行錯誤をしたし、知識のない私に色々教えてくださったみなさんにとても感謝です☆
みんなのおかげで、今の私がいます。
この8年、内容のない「Docile's Garden」時代からお付き合いいただいているみなさん本当にありがとうございますm(__)m

あのサイトがあったから「ゴシちゃんランド」も「関ちゃんカフェ」も「こいちゃま茶房」も生まれたと思います。
「建築散歩」もそうかもしれません^^;;
ホームページ製作が大変だと思ってたら「建築散歩」は作らなかったでしょうね。
「建築散歩」もたくさんの方にご協力いただき完成したサイトです。
W.M.ヴォーリズ氏の肖像を提供していただいたり、年表を確認していただいたり、時には一般公開していない建物を見学させていただいたり・・・。

「ゴシちゃんランド」も丸7年。
5周年の年には、ゴシちゃんとファンの交流会的なイベントを企画・開催が実現できました。
メッセージを下さった、中野督夫さん・CHAKAさん、貴重な映像をご提供くださったゴシちゃんのマネージャーさんには本当に感謝しています。
次は10周年記念でなにかできたらいいな・・・と思います。

いつもどうでもいい話題ばかりで恐縮ですが、このブログも末永くよろしくお願いしますm(__)m

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2006.04.19

『コミュニケーション技法』のコト。

20代半ば過ぎ。
私はある学校で『コミュニケーション技法』という科目を受け持っていたことがあります。
集中講座でやった年と週1回半期でやった年があったと記憶しています。
授業というよりは、みんなで体を動かすことが多い内容でした。

今思えば画期的な内容だったのかもしれません。
学校がオリジナルに用意したテキストを元に、何人かのインストラクターが学生達に「気づき」を学ばせる科目でした。

「教える」のではなく、「気づかせる」ことがテーマでした。
その学校の学生は「対人援助職」をめざしています。
介護福祉士やMSW(医療ソーシャルワーカー)、ST(スピーチセラピスト)、医療秘書、児童福祉施設職員などなど・・・そんな職業をめざす学生達に、「コミュニケーション」について考えて気づいてもらう、そんな授業です。

たとえば「伝言ゲーム」。
今では時々、サークルなどで行われる「手話伝言ゲーム」の音声版。
だいたい、8名1チームくらいで文章を伝言をして最後のヒトが黒板にその内容を書くんだけど、1度目は聞いて伝えるだけで2度目は必要に応じてメモをとってOKというルールで行います。
どちらが正しく伝わるかは一目瞭然。

他には「ブレンストーミング」を体験してもらうこともやりました。
ブレンストーミングは別名「発想法」とも呼ばれていて、会議などでアイディアを出し合う時に、「誰かの発言を否定しない」のがルールです。
「そんなの無理だよ~」「現実的じゃないな・・・」など否定するヒトがいるといいアイディアは生まれないという考え方です。

1グループにあるテーマを与えて、みんなで解決方法を考えてもらって、出てきたアイディアの中でどれがいいかを相談する・・という作業を学生たちにしてもらいます。
そういう作業の過程が大切・・という授業です。

この『コミュニケーション技法』の中で「ブラインドウォーク」もやりました。
2人一組で、ひとりがアイマスクをしてもうひとりがガイドヘルプをしながら、最初は校内を歩き、次に屋外を散歩します。
アイマスクをしているヒトは、最初は恐怖感があるけれど、ガイドヘルプの声を信じ、自分がわかりやすいタイミングを言うなどして信頼感を育てます。
余裕が出てくると、小鳥のさえずりや木々のにおいなど目で見えない分、視角以外の感覚が研ぎ澄まされてくるのを感じることができます。

手話通訳はコミュニケーション保障に関わる業務ですよね。
私が『コミュニケーション技術』を受け持っていたころ、手話通訳をしようなんて夢にも思っていなかったのですが、このテキストに出てくる訓練内容や「気づき」って手話通訳者にものすごぉく大切なことだなぁと思い出して、当時のテキストを引っ張ってきました^^;;
ひとりではできないことなので、今度サークルでやろうかな・・・。

手話でブレンストーミングなんてどうかしら!?
ブラインドウォークの替わりに耳栓して街へ出るとか・・・。

こうして自分の関わってきたことを考えると、私はとても人間が好きなんだなぁと思います。
モノを作る達成感より、ヒトとかかわりコミュニケーションすることが好きなんだと思います。
コミュニケーションの方法はなんでもかまわないんだと思うんです。
通じる喜びと情報を共有できる喜びがあれば私は社会的に幸せを感じることができるような気がします。

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2005.09.26

「きょうこさん」たち。

私は高校を卒業して、都内に進学するため北海道から上京してきました。
18歳のときです。
私の学生時代の大切な想い出にアルバイト先の「ジョイタイム」があったことは以前書いた通りです。
他にもびっくりするような出逢いがありました(笑)
今日は私が住んでいたアパートのお話。
当時、「私に文才があったら、この日々を小説にしたい」と思ったくらい毎日いろんなことがありました。

18歳で上京した私は古い、女性限定のアパートで1人暮らしを始めました。
場所は深沢6丁目。
学生だけではないのですが、女性ばかりが暮らすアパートで大家さんの家の敷地内に建っていました。

入学式もまだな4月のはじめ。
このアパートで初めて会ったのは、私の真上の部屋に住んでいる鏡子(きょうこ)ちゃん。
彼女は近鉄ファンで、野球中継が始まると近所迷惑なほどの大声で応援を始めるひとでした(笑)
明るくて面倒見がいい、姉御肌の鏡子ちゃんは茨城出身。
私はよく、鏡子ちゃんのお部屋にゴハンを食べに行きました^^;;
お茶碗とお箸をもって鏡子ちゃんのお部屋へ行ったり、「ただいま~」と自分の部屋に帰るより先に鏡子ちゃんの部屋へ行ったり。
いちばん年齢が近かったのでとってもお世話になりました。

それから、鏡子ちゃんの隣のお部屋に住んでいたのが匡子(きょうこ)さん。
新潟出身のジュエリーデザイナーで、線が細くて華奢な印象。
とってもおしゃれで、お部屋のインテリアも同じ間取り(?)と驚くくらいセンスが良かったです。
匡子さんは、ジュエリーデザイナーなのでお部屋でデザイン画を書いたり、ジュエリー以外にもステーショナリーのデザインもやっていて、あるとき一緒に東急ハンズへ買い物へいったら匡子さんのデザインしたステーショナリーがかっこよく陳列されていて、すごいなぁ~と感動しました。
暇なときは、私や鏡子ちゃんにシルバーアクセサリーを作ってくれたりもしました。
一部屋じゃ足りなくなって、同じ階にもう一部屋借りてプライベートとアトリエを分けていました。
あんなに古いアパートじゃなくても、もっと広くていいお部屋に引っ越せばいいのに・・と今では思います^^;;
匡子さんはコーヒーが大好きで、よくおいしいコーヒーを入れてくれました。

それから、お世話になった樹央子(きおこ)さん。
彼女は大学卒業後、中学生の五教科の通信添削講座の先生をしていました。
この会社のスゴイところは、教科以外のことでも何でも質問を受け付けて、生徒と添削する先生の距離を縮めるということを行っているところです。
なので、樹央子さんは「どうしたらジャニーズ事務所に入れますか?」とか「○○くん(アイドル)に会うにはどうしたらいいですか」なんて質問をぶつけられ、悪戦苦闘しているときがありました^^;;
そんなときは、匡子さんや鏡子ちゃんも集まってみんなで知恵を絞ったりして協力しました。

まだやっとこ、東京での生活に慣れてた私にとってこの3人は、干渉しないけど見守ってくれるとってもステキなお姉さんであり、「社会人として働くコト」を垣間見せてくれた人たちです。
就職活動の時も相談したなぁ・・・。

でも、小さなアパートに「きょーこ」さんがいっぱいで笑えるでしょう?
よく一緒にご飯を食べたり、買い物へ行ったりした4人の中で私だけ「きょーこ」と発音しない名前でした^^;;
しかも、この頃の「きょうこ伝説(?)」にはおまけがあって同じサークルの先輩でみんながあこがれていた女の先輩が、鏡子ちゃんのお友達で「恭子(きょうこ)先輩」といい、当時私が仲良かった同級生が「恭子(きょうこ)ちゃん」でした・・・^^;;;
まぁ、同級生の「恭子ちゃん」は他に愛称があったので「きょうこちゃん」と呼ぶことはなかったのですが、鏡子ちゃんと匡子さんと樹央子さんと恭子先輩に囲まれて、私は学生生活を送っていました。

・・・後にも先にもこんなに周囲に同じ名前がいっぱいだったことはありません。
匡子さんが「鏡子ちゃーん」と呼んだり鏡子ちゃんが恭子先輩のことを「恭子ちゃんがね・・・」と話してくれるなど、なかなかややこしい日々でした(笑)

同級生だった「恭子ちゃん」以外には、もう10年も会っていません。
お世話になったたくさんのきょうこさんたちに、会ってみたい今日この頃です。

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2005.08.28

教会の想い出とミッションアーキテクシャー

横浜には教会がたくさんあります。
私が住んだことのあるどこの町よりも、教会の数が多い気がします。
私はW.M.ヴォーリズJ.M.ガーディナーという2人の「ミッションアーキテクシャー」といわれる建築家が好きです。
この2人の共通点は、アメリカ生まれであること。
来日したきっかけは日本でのキリスト教伝道を目的とした教育者であったこと。
その後、日本に多くの建築作品を残していること。(その中には教会建築も多くあります。)
そして、祖国に帰らず日本にお墓があること。
・・・さっと上げてもこれだけの共通点があります。

2人の作品を見て歩くようになって、教会建築にとても興味を持つようになりました。
でも、ふと考えると教会の想い出は中学時代まで遡ることを思い出します。

中学時代英語と数学の塾に通っていました。
塾・・・といっても普通の学習塾ではなく会場は教会でした。
プロテスタントの教会で建物はとても質素です。
牧師さんは女性です。
英語は牧師さんが礼拝堂で教えてくれました。
中学校の教科書を使った授業でした。
私はこの教会へ行くのがとても楽しみでした。

まず、塾に入会すると「リビングバイブル」という新約聖書がもらえました。
聖書に興味があったわけではなかったのですが、暇なときに読むと子供でも結構楽しめます。
「リビングバイブル」が面白くて、旧約聖書を買ったのを覚えています。

英語を教えてくださっていた牧師さんは、オノ・ヨーコさんと同じ学校へ行っていた期間があるらしく、初めての英語はオノ・ヨーコさんに教えてもらったと言っていました。
その単語はたしか日本語だと「権利」とか「主義」とかそんな単語だったと思います。
オノ・ヨーコさんらしいですよね・・・。
私の通っていた中学校の英語の先生はカワリモノで、授業の最後に必ずフォークギターを弾きながらビートルズナンバーを1曲歌ってくれたので、学校でのその経験と教会でのオノ・ヨーコさんのお話が相まって、ビートルズに傾倒していった私です^^;;;

英語は牧師さんでしたが、数学は北海道大学の学生さんが2人で教えてくれました。
場所はやっぱり教会内なのですが、敷地は教会だけど礼拝堂ではなく、お庭にある廃車になった路線バスの中が数学教室の会場でした(笑)
廃車になった路線バスが改装されて、机と椅子がならんでいます。
そこで受ける数学の授業は結構、楽しかったです☆
さしずめ、マクドナルドのパーティーバスのイメージかな?
でも、あんなにキレイじゃないけどね。
数学、嫌いだったけど大学生の授業は学校の先生の授業よりわかりやすくて面白かったのを覚えています。
あの先生たちはちゃんと教員になれたのかしら・・・?

そんな教会の英語と数学教室に通っていたのは市内の複数の中学校の生徒たち。
他の中学校の人たちと友達になれることも、魅力のひとつでした。
すごく、楽しかったなぁ。

教会のこと、思い出して久々に足を運ぼうかと思ったらなんと!
建物が建て直されて、場所も近くの別の場所に移転していました。
でも、牧師さんは健在で私のことも覚えていてくださいました。
懐かしかったです。

私がつい、教会に惹かれてしまうのはそんな経験があるのかもしれないな・・なんて思います。
クリスチャンではありませんが・・・。

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(ガーディナー設計/日光真光教会ステンドグラス)

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(ヴォーリズ設計/博多ルーテル教会礼拝堂)

J.M.ガーディナーは米国聖公会から、W.M.ヴォーリズは海外伝道学生奉仕団からの派遣で日本にやってきました。
2人とも、来日したときに横浜を通り横浜にも建物などを残しています。
2人の来日した時期は少々ずれていますが、2人が知り合いだった可能性もあります。
日光を愛したガーディナーと、近江八幡と軽井沢を愛したヴォーリズ。
そんな2人が惹かれた日本の文化の魅力はなんだったのかな・・と、時々考えます。
日本の中で、それを考え続けても答えは見つからないのかもしれませんね。

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2005.08.03

手話による服薬指導などなど。

きよきよさん「夏期研修」という記事を見て、サークルの活動で画期的な勉強会をしているなぁと感心。
すごいなぁ。
大きなサークルならではという面もあるけれど、うちのサークルでも工夫してこういった研修のような勉強会ができるといいな。
この記事を読んで思い出したことがあります。

今から12年前、「薬事日報」だったか「薬局新聞」だったかを読んでいたら熊本県内のある薬局で手話による服薬指導を行っている・・・という記事が掲載されていました。
手話による服薬指導のためのマニュアルも作成しているとのこと。
さっそく、新聞に掲載されていた連絡先に問い合わせをしてFAXでそのマニュアルを送っていただきました。
(今でも持っていますが、FAX送信日時が1993年になっているので12年前どはっきり判るのです^^;;;)

届いたマニュアルはB4版3枚程度のもので、手書きのイラストで服薬に関する説明の手話が描かれているものでした。
イラストのイメージは、「わたしたちの手話」のイラストみたいな感じでした^^;

内容は、薬を「食前にお飲みください」「食後にお飲みください」「食間にお飲みください」の説明や、「薬をかまずにお飲みください」などなど基本的なものから、「頓服薬」についての説明みたいなちょっと込み入ったものまでありました。

きよきよさんの記事に「食後にお飲みください」のお話が出ていましたが、ろう者に限らず、年配の方々(時々若い人でもあるんだけど^^;)が誤解しているのが「食間」のお薬の飲み方。
食事の間=食間。
つまり、朝食と昼食の間、昼食と夕食の間というように食事と食事の間の時間のことなのですが、食事の途中で飲む薬だと勘違いされている方がいます。
手話で「食間」って言っても判らないので、より具体的に表現した方がいいですよねぇ・・・。

当時、そんなことも思いつかない私。
マニュアルには普通に「食事+間」の手話表現のイラストがありました。
たまたま、顔を会わせる機会があった現在手話ニュースキャスターの谷田道子先生にそのマニュアルを見ていただいたとき、そのことを指摘されました。
それと同時に、言われたのが「マニュアルの手話は熊本の方言手話が多いので、関東では殆ど通じないでしょう」でした^^;;
手話の難しさに戸惑いました。

12年前といえば、医薬分業が盛んにさけばれて活発化し始めてきた時期です。
熊本の薬局がどういった経緯で、手話による服薬指導マニュアルを作ったのかわかりませんが、当時はとっても画期的だったと思います。
地元のろう者の中には医療機関でもらった処方箋はその薬局にもってくというヒトも多かったのかもしれません。

この薬局、今はどうしているんだろう・・・。
ちょっと気になります。

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2005.07.07

ユースホステルに泊まろう

ジョイタイムの思い出話に続いて学生時代の思い出です。
今でこそ、経済的にそれなりの余裕があって旅行を楽しむことができますが、学生時代はとにかくお金がありませんでした(笑)

バイトと学校とサークルの日々。
夏休みや春休みの長期休暇は前半は、ずっとジョイタイムでバイトして後半まとまったお休みを取って色んなところへ旅行しました。

北海道からだと遠くて行くのが大変な土地も東京からなら、かなり楽です☆
JRの周遊券など駆使して友人と本当に色んなところへ旅をしました。
ホテルや旅館は高いので、ユースホステルを利用するのが定番でした。

ユースホステルは若者向けの宿といえばいいのかなぁ?
会員になるとスタンプを押すような手帳をくれます。
それで全国のユースホステルへ泊まると、スタンプとかシールをくれるんです。
ユースを経営している人たちを「ペアレントさん」と呼び、お部屋は男女別々の相部屋(2段ベットがある6人部屋とか)です。
同じお部屋になったヒトと、どこへ行ったとかどこは良かったとか情報交換できる楽しみもありました。

新幹線も使わずに夜行に乗って行った、萩や津和野・・・遠かったなぁ。
津和野ユースはご飯が美味しかった記憶があります。

ユースは初めて泊まる場所でもかならずペアレントさんが「おかえりなさい」ってお迎えしてくれて、チェックアウトのあと帰るときは「いってらっしゃい」ってお見送りしてくれます。
当然、ユースホステルによって当たり外れがあったりするんだけど^^;;;
そんな情報も同室になったヒトから教えてもらったりします。

若者が安く安全に旅ができるこのシステム、今はどんな感じなのかなぁ?
イマドキの若者は利用するのかな?
ユース自体も減っていそうだけど。

大人になって色んなヒトとお話するけれど、出身地の話などになると大抵の場所に、私は行ったことがあって驚かれることが多いです^^;;
その裏には、学生時代の貧乏旅行とジョイタイムの仲間達が全国各地に散らばっていて、社会人になってからも遊びに行ったりすることがあるからだったりします^^;;

インターネットやメールはすごく便利で、私も超ヘビーユーザーなのですが、ヒトとヒトとの顔をあわせてのコミュニケーションってとても大切だと感じます。
そういう意味で、ユースホステルは知らないヒトと一期一会で寝食を共にしたり、情報交換をしたりして血が通ったコミュニケーションができる場だったなぁと思います。
門限があったり、毛布のたたみ方が決まっていたり^^;;わずらわしい部分も多いけれどね^^;;

10代、20代初めのうちにはぜひユース体験をして欲しいなぁと・・・思います。
ああ・・・年寄りくさい文章になっちゃった(苦笑)

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2005.07.05

ジョイタイム深沢店

学生時代、色々なアルバイトをしました。
基本的には長期のアルバイトを1つ。
他に短期や単発を色々という感じです。

今の私に大きな影響を与えているもののひとつにジョイタイム深沢店でのアルバイト経験があります。
ここはファミリーレストラン。
でも20年以上前から今のガストのように安さを売りにしていたようです。
私がバイトしていたときはコーヒーお替り自由で130円でした(笑)
けれども、今はもう深沢店はありません。

以前は渋谷店・深沢店・代々木店・目黒店・吉祥寺店がありましたが今は、渋谷店と吉祥寺店くらいしか残ってないようです。

深沢店は桜新町駅からサザエさん通りをまっすぐ国道246号線へ向い、道を渡ってすぐのところにありました。
同じ建物にはレコーディングスタジオがあって、時々チャゲ&飛鳥のレコーディングをやっていたのを覚えています。

ごく普通のファミレスです。
社員2人とアルバイト30名くらいでお店を回していました。
アルバイトの殆どは地方出身の学生でした。
何人か地元の高校生もいました。

社員が2人なので長くバイトをしていると社員なみの業務を、行ったりもしました。
でもサークルみたいでとっても楽しかったです。

仕事に対する考え方、責任の持ち方、新人教育の仕方、常連のお客さんとの距離のとり方、クレーム処理の仕方、新メニューのアイディア・・・などなど本当に多くのことを学び、そしてかけがえのない仲間たちとの出会いがありました。
外食産業界に就職したわけではありませんが、社会人としての仕事への向き合い方を本当に教えてくれたと思います。
あのバイト時代があるから、今の私があると言っても決して言い過ぎではないくらい・・・。

地方出身者が多いので、学校卒業後多くのヒトは地元へ帰っていきました。
神戸・広島・静岡・青森・北海道・岐阜・・・・などなど。
もちろん首都圏に残って結婚したりしているヒトも多くいます。
海外へ留学したヒトもいます。

バイト仲間とは今も連絡を取っては時々集まれるメンバーで会ったり、誰かが上京してくるとなるとみんなで集まったり(笑)
学生時代に戻って元気をもらえます。

朝まで飲んだり、ドライブしたり、大騒ぎして三軒茶屋の居酒屋で出入り禁止になったり、朝野球チームを作って支店対抗の試合をしたり(笑)
誰かの失恋にみんなで泣いたり、笑ったり・・・とてもかけがえのない時間でした。

お店に良くきていた近所の高校生や大学生との思いでもいっぱいです。
何年か前に、私がバイトしていた当時進路で悩んでいた中校生に偶然会ったら「専門学校へ行っています」って言っていました*^^*
覚えていてくれて嬉しかったなぁ~。

ここをご覧の方でジョイタイム深沢店を知っているヒトいるかなぁ?
いたら嬉しいな。
すぐ裏が明石家さんまさんの家だったので、当時運転手だったジミー大西さんがよくごはん食べにきていましたね(笑)
あと、渡辺謙さんとか、鈴木京香さんとか*^^*

ジョイタイム渋谷店には今も時々行きます。
たまに本部のSV.を見かけると嬉しくなります(笑)
深沢店がもうないから、余計にノスタルジックになっちゃうのよね・・・。

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2005.05.31

聴こえる社会と聴こえない社会

プライバシーのこともあるので書こうかどうしようか、迷っていたことを記事にしようと思います。
全国ろう児をもつ親の会」の方に、随分前にその話をして欲しいと言われたことがあったのですが、気持ちの整理もつかず言葉もうまく選べずにいました。

人生を決めるのは自分自身ですが、選択肢は多くしてあげたい・・・私はそう思うのですが、みなさんはどうでしょうか。

もう、随分前のお話です。
生まれてから一度もろう者と接してこなかった、ひとりの聴覚障害を持った男子学生が大学に入学してきました。
小学校・中学校・高校と一般の学校で、読話と友人の手伝いで特別な問題もなく大学生になりました。

彼は大学4年のあと、大学院へ進学しました。
専門は理工系の技術関係なので、大学3年以降は授業でもかなり苦労したと思います。
彼も親御さんも、大学に対して特別な情報保障を求めませんでした。

何度か親御さんと話した私の個人的な印象ですが「聴こえないことを認めていない」感じでした。
「普通の子どもと変わらない」「訓練すれば問題ない」そう思って・・思おうとして、聴こえない事実を認めず手話を拒否する親御さんは、よくいますがこの学生の親は特にかたくなでした。
彼自身も、親の期待にこたえようとしていました。

大学院へ進学するとき、指導教員はコミュニケーションの限界を感じ、彼に「一緒に手話を勉強しよう」と声をかけました。
大学の先生がそんなことを提案することに、当時の私はびっくりしました。
「もし、彼と先生が手話学習を始めるなら私も協力します」その気持ちを、素直に2人に伝えました。

でも彼の答えは「NO!」でした。
「手話は必要ない。今までどおり読話で充分。」という答えをだしました。
彼を縛り付けるものに、親の「普通であって欲しい」というこだわりがあったのだと思います。

手話を覚えて、手話で会話してみる。
同じように聴こえなかったり、聴こえにくかったりするヒトたちと交流してみる・・・その勇気を持って欲しいと私は思いました。
確かに彼には友人がいました。
いつも数人で集まってワイワイしていましたが聴こえない彼は、1対1の会話にはそこそこついていけても、集団での飛び交う会話にはついていけません。
私には彼は仲間といても孤独そうに見えました。

手話を覚えてろう者と話したら、楽しいのに・・・と思いながら彼を見つめていました。
一度飛び込んで、経験してみてそれでも手話が必要ないと思うなら構わないと思います。
でも、体験もせずに拒否し続けることが私にはとても不自然で、親の期待にこたえようとする彼の呪縛のように思えました。

彼はまじめで優秀でした。
指導教員の理解もあったので、大きな問題もなく修士課程を修了することになり就職活動の時期になりました。

就職活動の時もやはり、彼も親御さんも「普通と同じ」にこだわり、障害者枠での募集には目を向けませんでした。
彼ほど優秀なら、障害者枠ですぐに就職が決まるはずです。
けれど彼は、聴こえる学生と同じ条件で同じように採用試験を受けました。
当然、面接の時の受け答えができません。
何社も何社も何社も落ちました。
周囲の学生たちはどんどん大手企業に内定していきます。

結局、指導教員や就職指導職員の助言もあり、最終的には障害者枠で超大手企業の研究員として就職をしました。
それでも、「障害者枠での採用」ということで親御さんは満足していない様子でした。

人生はヒトそれぞれなので、聴こえるヒトの方にだけ向いて生活することが悪いことだとはいいません。
本人が希望するなら、構わないと思います。

「聴こえない」事実は受け入れる必要があるものだし、聴こえないから不幸なのではないということも、家族で理解する必要があるのだと思います。
世界を狭めることはしない方がいい・・・。
ろう者の世界も聴者の世界も知った上で、友人や仲間を作っていった方がずっと人生楽しめるんじゃないかと感じました。

価値観はヒトそれぞれなので押し付けるつもりはありませんが、聴こえる友人といても、寂しそうな目をしていた彼の表情が忘れられません。

手話に関わっているヒトたちの中でも、「普通」にこだわる彼の親の気持ちがわかるというヒトもいます。
でも、今の私には分かりません。
もし私が聴こえない子供の親の立場になったら、言語習得にはこだわるけれど、聴こえる子どもと同じになることにはこだわりません。
手話と日本語両方を覚えて欲しいと思います。
自分の気持ちを伝えられないストレスを持たせたくないと思います。
「共感できる」ということは、とても幸せなことだと思うのです。

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2005.05.20

病院ボランティアの思い出

20代前半の頃、都内の大学病院の小児科で病院ボランティアをしていたことがあります。
病院ボランティアは今でこそ、結構メジャー(?)なボランティアで、病院の待合室で、診察予約などする機械の案内をしたり、入院患者さんたちのための図書の管理をしたり、様々なボランティア活動があります。

病院ボランティアをしていた頃、私は精神対話士の勉強をしていました。
カウンセラーの資格は臨床心理士を筆頭に多種多様にありますが、精神対話士もそのひとつで、病気になった方の話し相手をすることを主としたカウンセリング・・・というイメージです。
慶應大学付属病院のドクターたちが主となってできた資格でした。
ヘルパー2級と精神対話士と教員免許(養教と国語)・・・それが私の持っている資格でした。
そんな私は小児科内に設置された院内学級のような場所のお手伝いをしました。
子どもたちと遊んだり、絵本の読み聞かせをしたり・・・。
みんなが元気なときは、いいのですが大学病院の小児科なので難病を抱えた子どもいます。

ある時、いつものように子どもたちと遊んでいるといつもなら顔を出す13歳の女の子の姿が見えません。
彼女は白血病で、抗がん剤治療をしていました。

気になったので、彼女の個室へ行きました。
入り口で手をエタノール消毒して、院内感染防止用の白衣に着替えて頭髪も帽子で隠して入室します。
彼女は真っ白な顔をしていました。
「少し頭が痛いけど大丈夫・・・。」と笑っていました。

そこで元気だった頃のこと、元気になったら学校でしたいことなんかを少し話したのを覚えています。
私は、彼女とどれくらい話したのか覚えていません。
たぶん10分とか20分だったと思います。

その後、いつものようにプレイルームで小さな子どもの相手をしたんだと思います。

それから7日後。
いつものように病棟へ行くと、彼女の部屋は空き部屋になっていました。
もちろん、退院したわけではありません。
将来の夢がいっぱいの13歳の未来・・・。
それがたった1週間で消えてしまうのが、信じられませんでした。

小児科でのボランティアは筋肉痛の連続でした。
いつも親と離れている子どもたちは愛情に飢えています。
一番母親に甘えたい時期に、家にも帰れず毎日お母さんが来るのを待っている子もいます。
だから、1人を抱っこしてあげるとボクも私もと大騒ぎ。
順番に抱っこしてあげて、私は筋肉痛でクタクタになります。
それでも、夕方お母さんが病院に来ると嬉しくて嬉しくて今度は、私になんて見向きもしない(笑)。
私には向けられないような、満面の笑みでお母さんと一緒にいられる時間を楽しみます。

本当に自分の非力さを痛感しました。
どんどん消えていく小さな命。
小児病棟でも、隣の病棟は比較的軽い病気の子が多いので元気に退院していきます。でも難病や大きな病気を持った子どもたちが多い病棟ではそうは行きませんでした。

私がいた病院は、子どもたちが勝手に他の病棟にいけないようにドアが2重になっていて、自分の病棟内は自由に歩けるけど他の病棟にはいけないような工夫がされていました。
子どもたちにとって、あの病棟が世界のすべてでした。

本業が忙しくなり、病院ボランティアへ行くこともなくなりました。
それでも、なんだかんだと4年くらい通っていたでしょうか・・・?

仕事が忙しくてしんどくなると、あの子たちの顔が浮かびます。
一生懸命生きなくちゃいけないな・・・って思います。
何ができるのかわからないけど、誰かの役に立とうなんて大それたことは思わないけど、一生懸命生きてやりたいことをやって人生まっとうしよう!と、思います。

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2005.04.12

懐かしい少女マンガ☆

みきぼうさんのところで、ひょんなことなら同世代マンガ話に花が咲きました*^^*

少女マンガ、懐かしいです。
今のようにポータブルなゲームやインターネット、DVDや携帯電話など無かった私の子ども時代は少女マンガと少女小説(いわゆるコバルトシリーズとか^^;;)はとっても身近な娯楽(?)でした*^^*

私のマンガ人生は「なかよし」の『フォスティーヌ』にはじまります。
「なかよし」といえば『キャンディ・キャンディ』が人気でしたが私が買い始めた頃はもう終っていたような・・・。
かなり子どもだったのでよく覚えていません^^;;
「なかよし」からいつの間にか「りぼん」へと移り変わり、中学の時は「別冊コミック」や「別冊マーガレット」、「ララ」などを友達とそれぞれ担当を決めて購入して回し読みしたりしていました^^;;

川原由美子さんの『前略ミルクハウス』が大好きでした☆
川原由美子さんって、杉真理さんのファンだったのをご存知でしょうか?
マンガに「まさみち」くんが出てきたこともあります*^^*
今はどうされているのかな・・・?
もし、杉さんのライブへいらしていたりしてすれ違っていたりしたらすごいなぁ。

あとは、クラスの女子がみんな大好きだった紡木たくさん。
『ホットロード』や『瞬きもせず』、『彼の手も声も』などなど名作がいっぱいです。
今思うと、紡木さんの作品は横浜や湘南が舞台のものが多かったですね。
私が高校生の頃は、横浜に住むことになるとは夢にも思っていなかったのでマンガの中の世界に土地勘がなかったけど、今読み返したら違った楽しみがあるかもしれませんね。
あとは、松本美緒さんの『彼女の彼』にもはまってましたね~。

前後しますが、『ガラスの仮面』や『王家の紋章』も大好きでした。
『ガラスの仮面』は高校を卒業するまでずーっと買っていましたが途中で断念。
どうやら、今でも続いているらしいです!
月影先生もご健在で、まだまだマヤちゃんは亜弓さんと紅天女を争っているようです・・・^^;;

『王家の紋章』には子供の頃ものすごく影響されて、「大人になたら考古学者になるぅ」と言ってたことがありました(苦笑)。
いやー、お恥ずかしい(笑)

少女小説は赤川次郎さん全盛の時代に、新井素子さんや氷室冴子さんの作品を読んでいました。
あと、大和真也さんとか・・・。
大和さんの作品に『水曜日には雨が降る』という小説があって、この小説を書く時にずーっとかけていたのが大滝詠一さんの「雨のウェンズディ」なんだそうです。
私はそのことをあとがきで読んで、さっそくEPを買いに行きました。
当時、もう杉さんのファンだった私ですが大滝さんの曲を聴いたのはそれが最初でした。

ああ・・・懐かしいなぁ。
ひとり盛り上がってしまいました(笑)

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2002.12.17

学校の想い出

小学校のときの想い出は新しい校舎になって石炭運びがなくなって、暖房器具がエアコン式(冷房はない)になったことがとても嬉しかったのを覚えています。
卒業アルバムにも、旧校舎は載っていなかったような気がするのですが・・・。
おもしろい小学校でした。
小学校なのに、中学生以上と同じように専門教科(というか、たぶん得意な教科なんでしょうけど)を教える先生がいて、担任以外に授業を受けることが多かったです。
中学校の校舎もとても古いもので、私が卒業してまもなく移転して新築されました。
ピッカピッカの校舎になって、イマドキらしくしきりのないフリースペースのレクリエーションルームなんかもありました。
私は、この母校に教育実習に行きましたがあまりに見違えちゃって驚きました。
旧校舎は、しばらくは壊されずにそのままになっていたので時々遊びに行っていましたが、私の実家自体がその周辺から引越ししたので今はどうなっているのか判りません。

木造2階建ての校舎で、昔の写真を見ると校庭にプールがあったようですが、私が在学していた頃はその辺りは白樺林になっていました^^;
白樺林の鬱蒼とした中に、中学校があったんです^^;
(しかも、けっこう高台で見晴らしがよかったです)
遠くにズリ山が見えて、美術の写生ではズリ山を描いたこともありました。

とにかく隙間の多い建物で、冬には生徒玄関においてある靴が凍り付いたり(笑)、吹雪いた翌日、朝学校へ行くと窓側の机の上に雪が積もっていたり(笑)本当にひどい話しです^^;;

でも、ダルマストーブを囲んでみんなで給食のパンを網で焼いたり、ストーブの上に乗っている蒸発皿の中に牛乳ビンを入れて温めて、忘れてビンが割れたり(笑)、あの頃しか体験できなかったこともいっぱいあります。

掃除当番は、ストーブの灰まで取って掃除をして、学校の地下にある石炭倉庫まで石炭を取りに行って、教室の石炭を補充するのですが、石炭倉庫が怖くて3人くらいで行ったものです・・・。
家では石炭を使っていないので、中学を卒業したら石炭を見ることはなくなってしまいました。
一個くらいとっておけばよかったなぁ・・・(笑)

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馬車が行く!

今、思い出しても「私の思い違いかも・・・」と思うことがあります。
夕張市清水沢という所にある公園で、遊んでいると公園の前の道を馬車が通るのです^^;
昭和50年代ですよー(笑)
世の中、キャンディーズが流行していた頃ではないでしょうか。
私は、キャンディーズのことはあまり覚えていないくらいの世代なので、馬車のこともうる覚えだったりするのですが、子供心に「馬糞を踏まないようにしなくちゃ」と思ったものでした。
その馬車はたぶん、石炭を運んでいたのだと思います。
道はまだ舗装されていなくて、土の道でした。
ほどなく、道は整備されアスファルトが敷かれていくのですがそれと共に、いつのまにか馬車も馬糞も見なくなりました・・・。
きっとトラックなどに替わったのでしょうね。
私は馬車の写真は持っていないのですが、炭鉱遺構のサイトをあれこれ見ていると昭和40年代に活躍した馬車の写真がありました。
ずいぶん古い写真ですが、きっと私が見ていたものとそんなに変わらないのではないかと思います^^;

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